940回目の夏 -The 940th summer-

*

……コチ……コチ……


秒針が時を刻む。やがて奏でられる八つの鐘。抜けるような、雲一つない青空。蒸し暑い下界と異なり、そこは電熱服がなければ凍えてしまいそうな場所。

そこで、彼は抜き放った太刀を振り下ろす。鯨のように巨大な、銀色の怪物めがけて。

だが、刃は怪物を仕留めきれなかった。踵を返し、再度襲いかかる。だが、運命の時は刻一刻と迫っていた。


……コチ……コチ……


秒針の音が煩いくらいに響く。愛馬は蹄を蹴立て、彼は猛然と太刀を振り下ろ……そうとした。


その時……運命の時は訪れた。そこに居合わせた全ての者の運命を変える、その時が……

*

抜けるような青空は大好き。まっすぐに抜けた空の向こうに、私を呼ぶ誰かが見えそうな気がするから。それは誰かは分からないけれど、ずっと以前から知っている誰かが、ずっと以前から私を呼んでいる……そんな気がする。

お母さんと二人で住み慣れた町からここに引っ越してきたけれど、みんな温かくてすぐに馴れた。外のことは分からないけれど、こうやってみんなが一緒にいられる時間がずっと続いたら……いいな、と思う。


昭和20年7月。今年は梅雨なのに梅雨らしくない日が続いた。空はずっと抜けるような青空で、畑の芋もどことなく元気がない。雨はあまり好きじゃないけれど、やっぱり少しは降ってくれないと困る。

「……ふう。ちょっと、疲れたかな?」

私は畑の様子をお母さんと一緒に見て、それから空を見上げた。抜けるような青空は変わらない。お母さんが遠くで呼ぶ声が聞こえたけれど、私はもう少しこの気分に浸っていたかった。けれど、それは突然真っ暗になった視界とともに爆音にかき消された。

「阿呆!鈴音(すずね)!さっきから危ない言うてるやろ!?」

私に覆い被さるようにしているお母さんが大きな声を出す。横を見ると地面にまるでミシンで縫ったような跡があった。そのまま視線を空に向ける。その先には銀色に光る飛行機と、それを追いかける緑色の飛行機。

「遅いわ!海軍さん。しっかりしぃや!」

お母さんが私を地面に伏せさせたまま銀色の飛行機を追いかける緑色の飛行機に呼びかける。よく見ると銀色に飛行機には白い星の印があり、緑色に飛行機には赤い丸印がある。最初は追いかける立場にあった緑色の飛行機は、やがてあっさり翼を翻した銀色の飛行機に立場を逆転され、青い空で真っ赤な火の玉になってしまった。

「……弱ぁ……けど、落下傘が見えたなぁ。あれ、うちの方角や。ひょっとしたらまだ生きとるかもしれんなぁ。鈴音、はよ戻ろか」

お母さんは呆れながらもそういって私を起こした。体に付いた泥を払い落としながら、お母さんは小さく呟く。

「……やっぱり、ここも危ないんかなぁ……」

私はそれを聞こえなかったふりをして、お母さんと一緒に歩き始める。それが、私の運命を変える一歩だと、知らないまま……

*

温かい匂いがする。最近は配給も遅れがちで何もない居間に、珍しいお客さんが座っている。茶色い見慣れない服装の男の人。髪はちょっと長めで、ちょっと格好良い人。その人が、緊張した顔でお母さんと向き合っている。

「……基地には連絡取れたんやろ?まぁ、お迎えが来るまでゆっくりしていき。なーんもないけど」

お母さんはそう言って目の前の男の人に温かいお茶を勧める。最近は手に入らないとっておきだといつも言っているものだ。

「すみません。我々がしっかりしていないばかりに……」

そう言って、男の人はお母さんに勧められたお茶を口に運ぶ。その仕草は優雅で、私の知っている近所のおじさん達とは全然違っていた。

「……おいしい」

「やろ?前に京都で買ってきたお茶や。とっておきやで」

「それにしても……」

お母さんは男の人の頭から足の先まで眺めるように見る。茶色い見慣れない服――それは海軍の飛行機乗りが着る制服だった。両肩にはそれぞれ大きな軍艦旗と丸と直線を組み合わせた金の刺繍が施されている。特に怪我はない様子。私達が畑から戻ってきたとき、男の人は家の庭の木に引っかかっていたから、お母さんと一緒に降りるのを手伝ってあげた。それから電話でお迎えを呼んで、それが来るまでお母さんが居間でゆっくりするように言ったのだ。

「……海軍さん、ほんっとーに弱いなぁ。あーもあっさり撃ち落とされたら命がいくつあっても足りんやろ?」

お母さんがあっさりと言う。蝉の声が五月蠅いぐらいに聞こえる。その中で、海軍の兵隊さんは更に小さくなった。

「自分は……兵学校を出てまだ二百時間しか飛んでいないので……いや、言い訳にもなりませんね。これは」

それを聞いたお母さんは目を丸くした。

「へぇー。海軍さん、将校様やったんか。それは失礼したなぁ。飛んでる時間のことはうちにはよう分からんけれど、要するに、練習不足、ってことやな?下手ならもっと練習せなあかんやないか」

お母さんの言葉に、海軍の将校さんは小さく応える。

「……そう、ですね。もっと練習して、皆さんをアメリカの攻撃から守れるようにならないと」

「でも、将校様、結構格好良かったと思うで。うちらが撃たれたときに駆けつけてくれたし。まぁ、最後はちょっとアレ、やったけど」

お母さんはそう言って笑った。

「『将校様』というのは……自分は確かに兵学校を卒業し少尉任官していますが、そう呼ばれるだけの資格があるのかどうか……」

「なんや?随分弱気やなぁ。陸軍の将校様なんか、少尉殿でもこう、でーんとえばってるやないか。まぁ、将校様は随分線の細いお方みたいやし、そういう繊細なところがまた良い方向に向くこともあると思うけど」

「自分は国崎柳也(くにさき りゅうや)と言います。申し遅れましたが」

国崎少尉さんが改めて名前を名乗ると、お母さんはまた笑った。

「確かに名乗りは遅れたけれど、胸の名札見てるし、さっき電話しているところを聞いてるから、名前は分かっとった。ちょっとからこうてみたくなったんや。ごめんなぁ。国崎少尉」

「お母さん、酷いよ。せっかく私達を助けてくれようとした人なのに」

「なんや?鈴音。妙に国崎少尉の肩を持つなぁ。そうかー。鈴音ももうお年頃やもんなぁ。ぜーたくは敵やけど、そろそろ見合い話の一つでももってこないかんなぁ」

「お母さん!」

私は真っ赤になって反論した。酷いよ。

私がもう一言言おうとしたとき、玄関の扉を叩く音が聞こえた。お母さんが出てみると、そこには制服を着た兵隊さんが立っていた。国崎少尉さんを迎えに着た人達だと、一目で分かった。

玄関まで国崎少尉さんを見送り出る私達。玄関を出たとき、国崎少尉さんはぴしっと音がするような折り目正しい敬礼をした。

「お世話になりました。このお礼は、いずれまた」

「気にすることなんかない。少尉殿は体張って助けてくれた恩人やし。まぁ、娘、鈴音がまた会いたそうにしてるから、顔見せてくれたら喜ぶわ」

「お母さん!」

耳まで真っ赤になる。どうしてそういうこと言うかな?

私の様子を見てか、国崎少尉さんはくすりと笑った。

「分かりました。必ず。それでは失礼致します」


国崎少尉さんの姿が見えなくなった後、お母さんはぽつりと呟いたのを、私は聞き逃さなかった。

「大阪も神戸も灰になった言うし。松山まで逃げてきたけれど、ここもあかんかなぁ……」

お母さんの独り言。私は、そのことに何も言えなかった。

*

今日から8月。まだまだ暑い日が続く。蝉時雨が五月蠅いくらいに響く中、家の中が久しぶりに明るくなった、そんな気がする。

「……いやー悪いなぁ国崎少尉殿。今晩は久しぶりにごちそうできるわ」

お母さんの嬉しそうな声。うちは貧乏だから、買い出しにもそれほど行けない。配給も遅れがちで困っていたとき、国崎少尉さんが缶詰と水飴を持ってきてくれた。それに、卵も。しばらく見なかったものばかりで、お母さんは目を輝かせて国崎少尉さんにお礼を言った。

「私は航空兵で士官ですから、多少は融通が利きますし。本当は牛缶も持ってきたかったのですが……」

「ええって。鮭缶と野菜の缶詰、ごっつ嬉しいわ。それに卵と水飴まで持ってきてくれて、本当にありがとうなぁ」

お母さんは本当に上機嫌。どれも普段は食べられないものばかりだから私も嬉しい。

「喜んでいただけたのなら、幸甚です」

「でも、少尉殿、うちらより、ご家族に持っていった方がいいんと違う?こんなごちそう、今時巷で手に入らへんで?」

お母さんの言葉に、国崎少尉さんは一呼吸おいて答える。

「私には妹が一人おりますが、故あって旅を続けておりますから……」

国崎少尉さんはちょっと顔を曇らせた。お母さんもそれ以上聞かない。

「まぁ、それぞれにはそれぞれの事情があるからなぁ。うちもそれ以上聞こうとは思わんし。でも、妹さんがおったとは、少尉殿に似て、綺麗な人なんやろうなぁ?」

お母さんの言葉に、国崎少尉さんはちょっと照れる。離れていても大切に思ってくれる人がいるって、ちょっと羨ましい。

そんなことを考えていると、視線が私に向いているのを感じた。お母さんだ。何か言いたそうな顔……お母さんがこういう顔をするときは、たいてい良いことがない。その予感は、半分だけ当たった。

「……ところで、話は変わるけど、国崎少尉殿」

急に改まるお母さん。嫌な予感がする……

「……何でしょうか?」

お母さんは勿体ぶって咳払いをする。

「実は……うちら、今度引っ越そうと思っている。この前みたいにアメリカが飛んでくるようになったし、ここも危ないかな?と思ってなぁ……広島行こうと思ってるんや。広島は軍都やし、昔住んどったから知り合いもいる。それに、今まで一度も空襲におうてへんし、空襲しようにも四国と瀬戸内海渡らんと攻撃されへん。ここよりは安全やろ?」

お母さんは『どやろか?』と聞く。国崎少尉さんは顔を曇らせた。

「確かに、広島は軍都と呼ばれる大都市です。海軍根拠地呉も近く、また鎮守府の置かれた一大拠点、つまり、敵にとっても大きな目標となります。既に呉は攻撃を受け、泊地に停泊していた主要艦艇の大半は被害を受けています。つまり、いつ攻撃を受けてもおかしくない場所です。そこに今から……」

「……国崎少尉、うちらな、もう焼夷弾の中逃げるのいやなんや。大阪も灰になったし、命からがら逃げ出した神戸も同じやった。港町に住むから空襲を受けるんやと思ってここに来てみたら、やっぱり同じやった。少尉さん始め軍人さんが必死になって空を守ろうとしているのは知ってる。けどな、せめてこの娘、鈴音だけでも守りたいんや、うちも。奇妙な縁とはいえ、うちは今母親やし」

お母さんの言葉は重い。その意味を、私は知っているから。

「うちは、もともとぷらぷらしとってな、女学校途中で飛び出して大阪におったんや。そうこうしとるうちに母親やることになって、せめてこの娘だけでも守らな、そう思って生きてきた。
 ……なぁ、こんなご時世に変かもしれんけど、子供の幸せ願って悪いか?うち、間違ってるか?」

「……お母さん……」

国崎少尉さんの顔を見る。その顔は、『お母さんは正しい』と言ってくれているようだった。

空が急に翳り出す。滝のような雨が降り始め、家の周りは真っ暗になった。雷が鳴り、その輝きだけが家の中を照らし出す。

「……この雨、しばらく止みそうにないなぁ……少尉さん、休暇、大丈夫か?駅まで行けるような状態やないで。これは」

「それは大丈夫ですが……」

「……それなら、今晩はうちに泊まっていき。たいしたもてなしもできへんけど、たまにはええんと違うか?」

国崎少尉さんはしばらく考え込んだ。多分、女だけの家に泊まることを迷っているんだと思う。

国崎少尉さんが止まない雨の音の中、私達と朝を迎えると言ってくれたのは、それからしばらくしてのことだった。

*

夜。激しい雨はもう上がっていた。お母さんはもう眠ってしまっていたけれど、私は寝付けなくて廊下を歩いている。ちょっと喉が渇いたけれど、それだけが理由じゃない。

私は一つの部屋の前で立ち止まった。この家にはお母さんと私、しかいなかった……けれど、今晩は違っている。

「……国崎少尉……さん?眠ってます?」

私はそっと障子の向こう側に声をかける。返事は……なかった。もう眠ってしまったのかな?

その時、私の後ろから声がかかる。驚いた私に、その声は優しく語りかける。

「驚かせてしまいましたか」

国崎少尉さんだ。お母さんが用意した寝間着を着ている。軍服姿しか見たことがなかったけれど、こういう恰好も似合う人だ。

「……あ、あのっ!少しお話しがしたいな……と思って……」

国崎少尉さんは柔らかく微笑んでいる。私の次の言葉を待っているように。

「……迷惑……ですか?」

「そんなことはないですよ。さあ、どうぞ」

優しい物腰の国崎少尉さん。私は、促されるままお母さんが用意した部屋に入った。


部屋は普段は客間として使っているけれど、ほとんど何もない殺風景な部屋だ。その部屋の真ん中に、布団が敷かれている。けれど、使った形跡はなかった。さっきまで何をしていたんだろう?そう考える私に、国崎少尉さんはゆっくりと言葉をかける。

「貴女達は、本当に不思議な人達ですね。何か、私が捜していたものを見つけたような、そんな気がします」

「……捜し物、ですか?」

国崎少尉さんから話を始めてくれたので、私も少し楽になった。国崎少尉さんはふと視線を外、ここからは見えない空に向ける。

「ええ。ずっと、昔から。私の、生まれるずっと前から。私達には捜し続けているお方がおります。この空の向こう、天空の檻に囚われた、翼ある尊き方を」

「翼……ですか?」

不思議な話。そう。それは本当に夢のようなお話し。

「そう。私は空へ、誰よりも高みのあるその檻へと手を伸ばすため、航空兵を志願しました。そして、妹は諸国を巡り、私とは違う方法であのお方を解き放つ方法を探しています。私達の祖先が、あのお方を交わした約束を守るために」

国崎少尉さんの言葉は不思議。けれど、それは不思議と、どこかで聞いたことのあるような言葉だった。国崎少尉さんと初めて出会ったときに感じたこと、それは……。だから、話せたのかも知れない。

「私も、最近夢を見るんです。高い、とても高い空から、私の家を見下ろしている、そんな夢です。以前はそんなに見なかった夢なんですけれど、国崎少尉さんに出会ってから、ずっとその続きを見るようになって……」

お母さんに話したら笑われたこともあるお話し。けれど、国崎少尉さんは笑わなかった。それどころか、驚いたように私を見ている。やっぱり、変なことを話したのかな?

笑われることを覚悟していた私に、国崎少尉さんの言葉は意外だった。

「……その夢、今どこまで見ましたか?」

真剣な表情。今まで私達に見せたことのない顔。その顔すら、どこかで見たことがあるような、そんな気がする。

「どこかのお祭りを、そっと外から眺めているんです。踊りの輪が楽しそうに見えるけれど、どうしてかそこには入れなくて。
 でも、寂しくはないんです。私の側に、温かい人達がいてくれるから。不思議です。国崎少尉さんを初めて見たとき、夢の中に出てくる人が本当に目の前に来てくれたような気がして。おかしいですよね?」

国崎少尉さんの顔は……安心したような、そうでないような、複雑な表情だった。ふと、国崎少尉さんの口がかすかに動いたような気がしたけれど、それが何なのかは分からなかった。

「……ありがとうございます。話してくれて。けれど、もう夜も遅い。妙な噂にでもなると、鈴音さんに迷惑がかかります。そろそろ、戻った方が良いでしょう」

「……私は……いいんです。あの……国崎少尉さんさえ、よかったら……あの……」

精一杯の勇気。伝えたいことがあるけれど、それは言葉にならない。国崎少尉さんは、そんな私にゆっくりと、優しい笑みを向ける。

「柳也、で構いませんよ。鈴音さん」

そっと、私の手を取る。温かい手。優しい手。その手が私をゆっくりと引き寄せる。今まで感じたことのない、包み込まれるような、そんな優しさに、私は満たされていった……

*

私が広島に引っ越したのは、それからすぐだった。お母さんは笑っていたけれど、それ以上何も言わなかった。


引っ越したばかりで忙しい日。時間はあっという間に過ぎて――今日は8月6日。今日も暑い日になりそうだ。

「……あー、もう。やっぱ、貰いもんはあかんなぁ。ぜーたくは言えんけど」

数少ない楽しみのラジオがザーザーと雑音しか出さなくなって、お母さんの機嫌はあまり良くなかった。引っ越してすぐ、お母さんは市外の工場で働くことになった。毎日電車で大変そうだけど、いつも笑ってお仕事している。お母さんが笑っていると、私も嬉しい。だから、今日はちょっと悲しいかも。

「鈴音、今日は勤労奉仕の日やったなぁ……うち、仕事休むことできんし、今日休んで中央放送局までラジオ直してもらいにいってくれん?先生にはうちから言うとくから」

上流川(かみながれかわ)町にある広島中央放送局はちょっと遠い。けれど、無料でラジオを直してくれるのはそこしかない。それにラジオが聞こえないのも困る。昨日の夜も空襲警報が流れたし。私は、お母さんよりもちょっと早めに家を出た。多分、一杯並んでいると思ったから。時計は、もうすぐ7時になりそうだった……


8月6日早朝、空にはまだ星が瞬き、灯火管制が敷かれた市街はまだ夜の帳が降りている。静かな空間だ。その静寂を破るように、青白い炎を曳いた蛍のような輝きが天を舞う。ここは海軍松山航空隊。絶望的な戦況の中で一条の光芒となった精鋭部隊がいなくなった後の、留守番だ。しかし、それは決して暇である、ということを意味しなかった。

国崎少尉は、空が好きだった。昼の空、夜の空。それは同じ表情を見せることは決してない。だが、彼はただ空を見上げるだけの男ではなかった。誰よりも高く、それが彼の望みだった。

「国崎少尉。搭乗時刻です!」

年若い、まだ少年といえる整備兵が彼を呼ぶ。その先には、この航空隊にあってももう彼しか乗ることのない翼、中翼、単葉、零戦や精鋭部隊の使う紫電改を見慣れた者には違和感を覚えるその姿――紫電一一型甲――が、主を待ちわびていた。水上戦闘機を改造したこの機体は構造が複雑で脆弱な脚と水上戦闘機そのままの中翼構造による視界の悪さから嫌われていたが、彼はこの機体の後継機、設計をやり直して別物と化した紫電二一型――通称、紫電改――に機種変換することを頑なに拒んでいた。その理由はこの基地にいる者であれば誰でも知っている。誰よりも高く、それが彼の望みだったからだ。紫電一一型は、彼の手元に届く翼で、唯一それを満たせるものだった。

いつもの任務。上空を警戒し、必要であれば攻撃して敵を排除する。しかし、それが困難を極めることは、もう誰の目にも明らかだった。こちらの伎倆は地に落ち、敵の伎倆は鰻登り。もう開戦劈頭のハワイ奇襲作戦のような芸当は、叶うことのない夢物語となっている。しかし、だからといって、彼らは何もしないことを選ばなかった。精鋭部隊が最優先の燃料はなく、燃料切れで動けない燃料車の油槽の底を浚ってでも、彼らは任務を続行した。守るべきもののために。

「国崎!」

先任将校が愛機に向かおうとする彼を呼び止める。

「昨夜で宇部と今治がやられたのは知っているな?」

忘れるはずもない。特に、今治はここ松山から目と鼻の先だ。松山も、先月末に空襲を受けている。そのとき、彼らは碌に何もできなかった。多勢に無勢、どころの話ではない。彼らの伎倆では、近づくことすらできなかったのだ。

「広島市周辺にB29の編隊が偵察どころか威嚇するかのように飛んでいた、との情報も入っている。奴らの高度は高い。軍管区からの連絡があってからでは遅い」

彼には先任将校が言いたいことはよく解っていた。つまり、自分に文字通り部隊の目となれ、と言うことだ。

「了解しました。それでは、行ってまいります」

敬礼をして愛機に乗り移る。整備員泣かせで知られる『誉』発動機も今日は気味が悪いくらいに調子が良かった。

程なくして、彼は空に舞い上がった。


「うわぁ……」

広島中央放送局の前は、行列ができていた。みんな、ラジオがないと困るし、何より無料で直してくれるから、並んでいるんだろう。私もそうだし。

家を出てすぐ、空襲警報が流れたけれど、それもすぐに解除されていた。途中、どこかのラジオから『中国軍管区内上空に敵機なし』と流れていたのを覚えている。それにしても、受付開始は8時なのに、もう人で一杯だ。一体いつになったら帰れるのかな?と、ちょっと不安になる。そうこうしているうちに事務員らしき女の人が出てきたけれど、すぐに奥に戻ってしまった。いつになったら始まるのかな……

「一人、二人……」

手持ち無沙汰で並んでいる人の数を数えてみる。私の前に、20人。けれど、一人の男の人が怒ってラジオを地面に叩き付け、帰ってしまった。でも、確か、整理券は20枚って聞いていたから、これでぎりぎり修理してもらえそう。

「……遅いなぁ……もう8時過ぎたのに……」

私は呟いて空を見上げた。暑い。抜けるような青空。その真っ青な世界に、きらりと光るものを見つけた。よく目をこらさないと分からないけれど、それは、確かにあの人の翼だった。


「どこだ!上か?下か?」

国崎少尉は焦っていた。向宇品の独立高射砲大隊が射撃できない高々度をB29が単機航過した、との情報が入ったのは7時過ぎだ。目標は――広島市。そして、現在そこに急行できる可能性があるのは、彼だけだった。後続機はないとのことだが、彼の胸には嫌な予感が過ぎった。まもなく……8時。そのとき、彼はその嫌な予感が現実であることを知った。

B29の3機編隊――ジュラルミンの銀色を陽光に輝かせた、敵国アメリカの工業力の集大成。その中の1機には巨大な垂直尾翼には丸で囲まれた『R』の文字が見える。彼の視力は部隊でも屈指のものだ。見間違えるはずもない。編隊は彼の遙か上空を悠々と飛行していた。編隊は三原上空を抜け、広島市へと向かっていた。彼が発見するのと前後して、松永や中野の防空監視哨からの司令部への報告が届けられていたが、彼はそれを知らなかった。国崎少尉自身も即座に基地へと連絡を入れるが、それがどうなったか、彼自身は知る由もない。


国崎少尉は愛機に鞭を入れる。守りたいもの――柔らかな少女の笑顔と、見たことのない、しかし、彼自身がよく知っている翼ある少女の姿が重なり合ったとき、彼は思わず叫んでいた……


『直下!日本機……GEORGE(アメリカ軍は紫電をこう呼んでいた)が突き上げてくる!』

最初に彼を見つけたのは、写真撮影機の見張り員だった。彼らは新型爆弾投下後の写真を撮影するために列機に加わっていたが、彼らの乗るF13(偵察型のB29)には武装はなかった。高度30000フィート(約9000m)を飛行する編隊に攻撃できる日本機など、もう存在しない……それが甘かったことを思い知らされる。だが、彼を恐怖に陥れたのは、それだけではなかった。

それまで濃緑色の航空機だと思っていたものが、不意にその姿を変えた。何かの雑誌で見たようなオリエンタルなキモノ姿で荒々しい馬にまたがる端整な顔立ちの男が、聞こえるはずのない声を上げたのだ。


「我こそは神奈備命(かんなびのみこと)従者(ずさ)、衛門正八位大志柳也なり!我が主に仇なす夷狄よ、去れ!」


『ひ、ひぃ!カ、カナビノミコトなんて、俺はし、知らねぇ!』

腰から太刀を抜き放ち、迫り来る男に、彼は恐怖した。その太刀が振り下ろされる瞬間を、彼は直視できなかった……


新型爆弾を搭載したB29からは、その様子は天高く駆け上るGEORGEの一撃で僚機が墜とされたとしか見えなかった。重要部への直撃ではない。わざと逸らしたかのような、そんな攻撃。しかし、この高度で急激に機体の制御を失えばどうなるかは自明の理だ。だが、それですら彼らを脅かすには十分すぎた。しかも、敵は一撃で偵察型とはいえ防弾装備に優れるB29を操縦不能に陥れたのだ。それも、高度30000フィートという、通常の日本機ではまともに攻撃さえできない高度で!

『上から被ってくるぞ!』

残る僚機――科学観測機から警告される間もなく、機体に強烈な振動が走る。これも重要部への直撃ではない。しかし、既に新型爆弾は起爆準備に入っており、爆撃コースにも乗っている。回避することはできない。もう一度下から突き上げてくる敵機。その射線に、僚機が割って入った。空中衝突を避け回避する敵機。その時、彼らも既にいない写真観測機の彼らと同様に、空を蹴って駆け抜ける侍の姿を見ていた。

『俺達は、夢でも見ているのか?』

『夢は夢でも悪夢だな!』

『重要部に被弾しないことを祈ってろ!直撃は勿論、機体が急降下回避に耐えられなければ俺達も一巻の終わりだぞ!』

彼らに、先程までとは違う種類の緊張が駆け抜けた。

*

それは、遠目にもよく解った。銀色の光がぱっと輝いては消え、白い飛行機雲が真っ青な空に無数の線を描く。けれど、私以外の人もその様子に気付いていない。

それでも、私にはそれが誰だか判るような気がした。


柳也さんが、戦っている。私達を守ろうとして。


私の見た夢は、もう終わりに近づいていた。柳也さんと会えなくなる直前、見えない翼に痛みが走ったこともあったけれど、それも治まっていた。その意味も、私には解っていた。

どこからか、時計の音が聞こえたような気がした。それがどこからなのか確かめようとしたとき、こちらに迫ってくる銀色の大きな飛行機から白い花のようなものが落とされるのが見えた。その時には周りの人達も空を見上げ、大きな銀色の飛行機と、それに必死に追いすがりこちらに行かせないようにしている小さな飛行機の姿を見ていた。

「空襲警報は出ていないな……」

誰かが言った。

「また偵察じゃないのか?広島には空襲はないさ」

「陸軍か、海軍の戦闘機が喰らいついてるな」

「ああ、外した。下手くそ」

みんな勝手なことを言っている。違うのに。

そうこうしているうちに大きな銀色の飛行機は私達の上を飛び去り、相生橋の辺りだろうか、その辺りで急に向きを変えて降りてくる。ごおっ!という大きな音が聞こえたかと思ったとき……


世界が、真っ白になった……


B29の接近を躱した国崎少尉は下がりすぎた高度を立て直し、もう一度攻撃を仕掛けようとしていた。敵機からの反撃はない。東京初空襲の時のB25のように、武装を外して航続距離を伸ばしているのか。だが、もう広島市に入ってしまっている。既に1機のB29から落下傘のようなものが投下された。爆弾ではないようだが、もう1機が不気味だ。爆弾倉の扉は開き、既に爆撃準備に入っている。機会は、あと一度あるだけだろう。

「くっ……上がれ!上がれっ!」

急激な機動に体がきしむ。どこかで時計の秒針が動く音が聞こえる。耳障りで、嫌な音。だが、それに構わず照準器からはみ出すほどに間合いを詰め、必殺の一撃を見舞おうとしたとき……彼の脳裏にどこか遠くで聞いたような、それでいてはっきりと覚えている言葉が再び甦った。


 ――余はお主に命ずる。余を主とする限り今後一切の殺生を許さぬ。そう心得よ。


 ――余を主とする限り今後一切の殺生を許さぬ――


振り下ろす刀を白刃から峰打ちに切り替えるように、咄嗟に照準を爆弾倉から翼へと変える。狙いは外さなかったが、致命傷とはなり得ない。そのまま航過しようとしたとき……不意に敵機の姿が視界から消え……そして、真っ白になる視界の中、上昇する彼は捜し求めていた純白の翼を見た、ような気がした。

純白の翼が翻り、その声が耳に届く。


 ――もう少し、早いようじゃな……


幼さを残す声。その声は、強烈な閃光と熱に消えゆく国崎少尉の意識に、そう語りかけたような気がした……


広島中央放送局、その局内の窓から、ラジオ修理に並ぶ人の列を横目に、彼女は溜息をついた。古くさい田舎の村の生活に飽き飽きし、花形の放送員(アナウンサーのこと)になりたかったのに、やってることは故障修理の窓口嬢。やってられないわね……そう思って窓に目を向けたとき、突然の閃光と耳を聾する爆発音が彼女を襲った。飛び散る硝子の破片が矢のように彼女に突き刺さる。吹き飛ばされ、一瞬意識を失う。気がついて目を開けようとするが、激痛が走り何も見えない。自身に何が起こったのかすら解らない。混乱し、叫び声を上げる彼女に、優しく語りかける声があった。


 ――こっち……こっちへ……


誰、と問いかけることすら忘れた。ただ、その見えない目に白い羽――昔、村の神社で見た壁画のお姫様のような――が見えたような、そんな気がする。声に導かれるまま、彼女は何かが燃える臭いの中階段を上がり、廊下を抜け……誰か確認することができないうめき声を横に、壊れた何かに触れた。扉のようなそれ、その先のある、それまでと違う雰囲気……演奏室(スタジオ)?咄嗟に浮かんだのはその単語だった。中に入り、見えない目で辺りをまさぐり、触れたもの。それは軽い振動と、温かい感触を彼女に伝える……機材はまだ生きていた。


 ――ここ……ここ……


また、声がする。その声に、彼女は悟った。自分は、もうすぐ死ぬ。だから、神様が最後に願いを叶えてくれたのだ、と。それならば、やってみたかったこと、自分にできることを今やるだけ。見えなくなった目ではマイクがどこにあるのかさえ判らない。それでも、彼女は一生に一度の、最期の舞台に上がる。

血を流し続け、見えない目で、最後に願いを叶えてくれた神様に感謝しながら。


それは一瞬にして日常を地獄へと変えていた。あるものはその存在ごと世界から消去され、あるものは自分というものを奪い去られた。その地獄絵図の中、瓦礫の中のラジオから、今まで聞いたことのない、清んだ女性の声が聞こえた。


 ――こちらは広島放送局、こちらは広島放送局、このラジオを聞いた方はすぐ大阪放送局に連絡して下さい。広島放送局は敵機の爆撃で炎上中……


 ――こちらは広島放送局でございます。どうぞ大阪中央放送局、お願い致します。大阪、お願い致します。お願い致します……


それは30分ほど続いただろうか。それきり、ぷつりと声は途絶えた。それからしばらくして、ラジオに別の声が入る。


 ――こちらは大阪中央放送局でございます。広島に代わりまして大阪から放送いたします――


このラジオを聞いた人は少なかった。けれど、その悲しく美しい声は、彼らの記憶から消えることはなかった。

*

「……うち、暈けたなぁ。道間違えたんやわ。きっと、そうやわ」

神戸(かんべ)冬子があの天を衝くキノコ雲が消えてようやく自宅へと戻れるようになったとき……最初に口にした言葉がそれだった。娘が出かけてすぐ家を出た彼女は、所用を済ませた後、仕事場へと向かう市電を降りて路地へと入ったところであの閃光と爆発を背中で感じた。幸いにして壁を背にしていたのでたいした怪我ではなかったが、爆風で崩れた壁の下敷きになり、しばらく気を失っていた。気付いたときには道ばたに設置された応急の救護所で、そこで彼女は凄惨な光景を目の当たりにした。娘のことが心配になった彼女は救護所を飛び出し、家路についたのだが……そこには、何もなかった。


なくなっていたのは、自分の家だけではなかった。周りの全てが、なくなっていた。足許に、消し炭になった、人間だったと思われるものが無造作に転がり、炎がまだ至るところで燃え盛っていた。


彼女は娘の名を呼んだ。何度も。何度も。しかし、返事はない。そこで、彼女は朝のことを思い出す。

「……中央放送局。そうや。まだ戻ってないだけかもしれん」

矢も楯もたまらず駆け出そうとするが、そこで足を止めた。

「……鈴音も、うちのこと捜しているかもしれん。戻ってきたときに行き違いになったら……」

くすぶる焼け跡から火傷しそうになるのも構わず無事な木っ端を探しだし、引きずり出す。そして、転がっている焼け木杭で『お母ちゃんは無事。ここで待っとき』――それだけを書いて変わり果てた世界へと駆け出す。変わり果てた町並み。朝までは普通だったのに、それが一瞬にして失われた世界へ。


息が切れる、脚がもつれる。それでも彼女は足を止めなかった。耳に届くうめき声。目に入る『そのときまでは人間だったもの』。それらの中に、娘がいないことだけを信じて。


ようやく辿り着いた上流川町。そこは、未だ炎の海だった。彼女が目指した中央放送局も炎に包まれ……その玄関先には人が折り重なって倒れていた。自分も受けたあの爆風を、遮るもののない場所でまともに受けたのだ。ふと目に入ったあるものは子供が放り投げた人形のような姿で転がり、未だ流れる赤いものが彼女の体の奥から酸っぱいものを込み上げさせる。

「鈴音!いたら返事しぃ!」

娘を呼ぶ母の声。だが、返事はない。

「鈴音ぇ!」

もう一度、呼ぶ。その時、炎に煽られ熱気を帯びたものとは違う、涼やかな風が駆け抜ける。

その風が過ぎた後、空から吹き上げられた色々なものに混じって、純白の羽が舞い降りた。それは彼女の手の中に収まると、やがて雪のように消える。幻のような一瞬が過ぎた後、冬子は羽根の消えた手を握りしめたまま、慟哭する。その羽根が意味することを理解してしまったから。


それはやがて、降りしきる黒い雨に遮られ……ただ、消え入るだけだった。


「雨は……もう、嫌や。うちの手から、何もかも持って行ってしまう……」

どす黒い雨に濡れる彼女の声。その声を聞くものは、もうそこにはいなかった。時の止まった町。そして、彼女の時間も、そこで、止まった。


940回目の夏。それは、まだ早すぎた時。止まった時が流れ、約束の時が訪れるのは、もう少し後のこと……