ひとときの悪夢
*
……いつからだろう。ここにこうしているのは……
これまでの短い人生の中で数多くの選択肢があり、そして、その中から取捨選択した結果こうなったのであれば、俺のこれからはいったいどうなってゆくのだろうか……
さまざまな人と出逢い、さまざまな選択をした結果、俺が俺でいられるのであれば、俺はこれから何をすればいいのだろうか……?
最近、そんなことをよく考えるようになった。俺が俺であるために、俺にできることは何なのだろうか、と。
すべては破滅へとつながる道筋のひとつであると言った人がいた。本当にそうなのだろうか?思考の空転。終わりのない永遠。堂々巡りの回り道。
ふと考える。『俺は本当に俺なのだろうか?』――答えはない。見つかるはずもない。なぜなら、答えはすでに出ているから……
「浩之ちゃん……浩之ちゃん……」
声がする。俺を現実に呼び戻す声。聞き覚えのある声。この声は……
「……あかり……」
視界が定まってくる。と同時に、今まで感じたことのない声が聞こえる。その声は確かに言った。『えいえんはあるよ』と。
「浩之ちゃん。どうしたの?ぼーっと空を眺めて?」
あかりが俺の顔を心配そうに見ている。その声に導かれるように記憶の糸がつながってゆく。そうだ。俺は……
「今日の浩之ちゃん、ちょっとへんだね?」
あかりが言う。確かにそうかもしれない。だが、この違和感……まるで俺が俺でないようなこの感覚は、あかりには理解することはできないだろう。おそらく。
「……そういえば、もうすぐ夏休みだね?浩之ちゃん、今年はどうするの?また志保や雅史君と一緒に海水浴に行こうか?」
「そうだな……それもいいかもな……」
応えながら、俺は心の中でこう付け加える。そのときまで、俺が俺でいられたなら……。
「今日の浩之ちゃん、本当にへんだよ。どこか具合でも悪いの?」
「ばかいえ。俺がそんなヤワな男だと思うか?」
言いつつ、俺はこぶしを振り上げるそぶりを見せる。あかりがびくっと身をすくませる。いつもどおりのたわいない行動。だが、今の俺にはそれさえも奇妙に思えた。
「やっほー、あかり」
学校へ続く坂道の上から騒がしい声がする――志保だ。しかし、志保の次の言葉は俺とあかりを驚かせた。
「……あかり、あんたの隣の男、だれ?」
そう言って志保は俺の顔を無遠慮に覗き込む。その目は……知らない他人を見る目だ。
「志保、どうしたの?浩之ちゃんだよ?」
「ひろゆき……あたしの知り合いにそんな名前の男はいないわよ?……はっはーん。あかりもすみにおけないわねえ。いつの間にこんな男作ったの?でも、あかりがこんな趣味だとは……」
「志保、ふざけないで」
あかりはそう言うが、おそらく志保は冗談でこんなことを言っているのではないだろう。俺は無性にいやな予感がして……いつしか駆け出していた。
*
「……どういうことだ?」
自室のベッドで、俺はそうつぶやかずにはいられなかった。あの後、学校の校門で生活指導の教師に見咎められたのを皮切りに、誰も俺のことを覚えていなかった、いや、まるで俺が存在していなかったかのようだ。志保だけでなく、雅史まで、俺のことを覚えていなかった。結局、家に戻ってくるしかなかった。
「どういうことだ?」
もう一度言葉に出した。それと同時に沸き起こる違和感。俺が俺でなくなってゆく。この世界から消えてゆく……俺はそこで思考を切った。
何も考えたくなかった。ただ、時が過ぎればよい。もしこれが夢であるならば、いつかは醒めるはず……。そのとき、また『声』が聞こえた。
えいえんはあるよ。ほら、ここにあるよ……
永遠……?俺はそんなもの欲しいと思ったことなんかない。俺は……。
そこまで考えたところで、思考がそこで停止する。そう。俺は何が欲しかったんだろう。俺は……。
思考の錯綜。記憶の混乱。それはまるでぐるぐる回る糸車のようで、とどまるところを知らなかった。
俺はなぜここにいるんだろう?俺は何がしたいんだろう?俺は何が欲しいんだろう?答が欲しい。俺がここにいるという証が欲しい!
気がつくと、俺は街をさまよっていた……
俺は何をしているのだろう……ふと、そんな考えが頭を過る。街を歩いていても、誰も俺の事を顧みることはない。時折見かける親交のあったクラスメートたちも、誰も俺に気づかない。本当に俺はここにいるのだろうか?そんな疑問が鎌首をもたげる。そのとき、また『声』がした。
また、あえたね。ひろゆきちゃん。あえて、うれしいよ。
振りかえる。辺りに人通りは、ない。ただ、俺がいるだけの空間。そこのどこかから、その『声』は聞こえた。
「誰だ?」
俺は叫んだ。俺の心を満たすのは、『声』に対する郷愁の念ではなく、ただ、恐怖だったからだ。
「誰かいるのか?」
また振りかえる。人の気配はない。だが、そこに俺は……確かに見た。
ひろゆきちゃん。
見かえり、俺の名を呼ぶ少女。髪も、瞳も、何の色も宿さない俺と同い年の少女。俺が覚えたのは、その顔に対する郷愁ではなく、やはり……
絶叫。そして逃避。薄れゆく感覚、薄れゆく自己を必死にかき集めながら、俺は駆け出していた。その場に、そのさびしげな少女を残して。
「なんなんだ、なんなんだ、なんなんだ?」
混乱した思考を何とかまとめようとするが、それはただ、混乱の度合いを増すだけに終わる。何処かで出会ったのかもしれない。しかし、俺の記憶にあの少女の存在はない。
まってよ、ひろゆきちゃん。また、おいてゆくの?
『声』が響く。どうやら追いかけてきているらしい。俺の後ろから小さく靴音が聞こえる。だが、俺は振りかえらなかった。
まってよ、ひろゆきちゃん。どうしてにげるの?どうして?
耳をふさぐ。そうしなければ俺が狂気の渦に呑み込まれてしまいそうだ。しかし、まだ『声』はやまない。二人だけの滑稽なおいかけっこは、まだしばらく続いた。
ひろゆきちゃん。どうして……
どのくらい走ったのだろうか?そのうち『声』は聞こえなくなる。しかし、同時にそれは……俺自身の存在がこの世界から消え去るときだった。
*
「あら、あそこにおわすは……ヒロ?」
「えっ?本当に?」
今までどうして忘れていたんだろう?あかりと志保はそう思った。ふと気がつくと、自分の中から浩之の記憶が消えていたことを、今更ながら思い出したからだ。
一方、浩之本人は自己喪失したかのように、ただそこに立っていた。悪夢の続きを見ているように……ただ、そこに立っていた。
「浩之ちゃん。浩之ちゃん!」
駆け寄ったあかりが浩之の肩をゆする。しかし、反応はない。浩之は視点の定まらない目で何処か遠くを見ているだけだ。
「あかり、こういうときは、この志保ちゃんに任せなさい」
「何をする気?志保?」
「こうするのよ。……起きなさい、ヒロ!志保ちゃんチョーップ!」
なんともいえないものすごい音とともに繰り出されたチョップは、茫然自失している浩之の首をまともに見舞った。と、同時に、あかりが小さく悲鳴を上げる。
「なんてことするの、志保。大丈夫?浩之ちゃん?」
倒れた浩之に駆け寄ろうとするあかり。しかし、その前に……
「……っいつつ……」
浩之が首を押さえながら起きあがった。
「てめぇ、志保!いったい何をした?」
「ふっ。あたしの新しい必殺技よ。まともに決まったのは、今のが初めてだけど」
「てめぇ……」
キーンコーンカーンコーン……
遠くでチャイムの音が聞こえた。その音とともに「あっ」と声を上げるあかりと志保。
「いけない!遅刻するよ!」
「こんなとこでヒロにかまってる暇なんてないわね!」
「てめぇ、どういう……」
「浩之ちゃん、その格好で学校になんて行けないよ?家で着替えてきて!先生にはわたしが伝えておくから!」
そう言いつつ、二人はすでに走り始めていた。それに促されるように、浩之も反対方向に走り始める。自分の家に続く道なのに、ずいぶんと長い間通っていなかったような気がした。
そう、ひろゆきちゃんは、そっちがいいんだ……
その『声』は、もう浩之の耳には届かなかった。なぜなら……
そう、時の歯車は、また以前のように動き始めていたから……
(終)