Deofol Phantasia The 2nd Chapter "Reen & Hikaru"

Prologue

女の子の泣き声が聞こえる。

燃え盛る炎の中。

物が砕け壊れる綺麗な音の中。

女の子が泣いていた……


そう、あの時、私は罪人になったのだ……


意味もなくすべてのことを逆恨みし、無垢な心を傷つけて良心の呵責を感じることもなかった、あの日……私は……一生消えることのない罪を背負ったのだ……


たとえすべてが赦しても、一生消えることのない私自身の罪を……

1

秋が去り、冬の訪れも近く感じられる頃。ここ私立桐生院学園には決まった名物男が現れる。学校の職員と言う訳でもない。だが、決まって冬になると現れ、学校の周囲を掃除して去っていく……そんな人物だった。

現れたのはもうかれこれ五年も前だろうか。男の素性一切は判らないままだが、実害がないボランティアということで学校側は黙認している。そして、人当たりの良いことから、生徒には人気があった。ただ、一人の生徒を除いて……。


「……おじさん!おはよっ!」

最初に彼を見つけたのは、やはり杏子だった。北風の寒さを吹き飛ばす勢いの杏子の声に、彼は深々と礼を返した。続く梨香と亜里沙、リーンも挨拶する。

「おはよーございまーす!」

「毎朝ご苦労様です」

「おはようございます」

……だが、その横を何もなかったように通りすぎた人間がいる。優奈だ。しばらく歩を進めた後、それでも彼が視界に入っていないかのように……

「……そんなのに構っていると、遅れますよ?」

と言った。

「……ちょ……ちょっと優奈!それは……」

亜里沙が声をかけようとするが、ことこの件に関しては優奈の気持ちが変わらないことを知っているだけに、それ以上何も言えなかった。横で杏子達もやれやれという面持ちだ。

「……??
 Arisa、Yuna、どうしてあんな態度を……?」

「……そっか、リーンは知らないんだっけ」

亜里沙がリーンに事のあらましを説明する。と言っても、亜里沙も内情を詳しく知っているわけではない。せいぜい優奈がこのおじさんを何故だか非常に毛嫌いしているとしか言いようがなかった。それは、リーンを混乱させるだけでしかなかったかも知れなかったが……。

「……??」

そして、やはりリーンは事情が飲み込めず混乱したようだった……。


「Yuna!」

一時限目が終了した休み時間。珍しくリーンが優奈の机にやってくる。朝の『おじさん』の一件のことを聞くためだ。しかし……

「……リーン、友人として忠告しますわ。世の中には、関わらない方が良いこと、知らない方が良いこともたくさんあります」

「……でも、Yuna……」

「この件について、私はもう何も答えたくありません。これ以上聞くのなら……」

あきらかにいつもの優奈とは違っていた。よほど触れられたくないことなのか、それから優奈はリーンの呼びかけには一切応えようとしなかった……


そして、昼休み……いつもの席に優奈の姿は、なかった。

いつもより一人少ないメンバーで昼食を取るリーン達の口数は自然と少なくなっていた。その根源とも言えるのは、食事中にもかかわらず全身から沈黙の気配を辺りに振りまいているリーンだ。

「……ねえ、リーンちゃん?どったの?」

おおかたの理由を察している亜里沙が止めるのも聞かず、梨香がまず口を開いた。だが、リーンは沈黙を保ったままだ。

「ま、原因は判ってるけどさ。リーン、あんまり気にしない方がいいよ?」

ランチボックスからサンドイッチをつまみ終えた杏子のその言葉に真っ先に反応したのは、亜里沙だった。

「……その口ぶりからすると、杏子、何か知ってるわね?」

「ぜーんぜん。けど、優奈って一度意固地になると外からじゃあどうにもならないってことは覚えたわよ。ああなった優奈って乃木将軍でも攻略は無理ね」

杏子の冗談を笑った者は一人もいなかった。

「……杏子、あなたって……本当につまんないことはよく知ってるのね。それならさしずめ今の優奈は旅順要塞ってこと?はあ、ばからし」

「……ねえ?『のぎしょうぐん』って、誰?『りょじゅんようさい』って?」

「……梨香、もう少し歴史の勉強したほうがいいかもね。
 杏子でも知ってることなのに」

「亜里沙。それ、どういう意味?」

杏子が頬を膨らませたが、それでもリーンは話に乗ってこようとはしなかった。

「……リーン。あんまりこういうこと言いたくないけど、優奈の言ったこと、そんなに気にする必要ないよ。
 どうして優奈があんなにあのおじさんを毛嫌いしてるのか知らないけど、そんなこと私達の知ったことじゃないもの。自分が思ったように行動すればいいのよ」

沈みきったリーンの顔を無理やり自分に向けた杏子が、いつになく真面目な顔で言った。

「……う、うん。でも……」

「……デモは警察の許可を取ってから!……ってつまんないギャグは置いといて。
 そんなんじゃ全然楽しくないよ!もっと肩の力を抜いて!リラーックスリラックス!」

「……貴女のつまんないギャグもね。聞いてるこっちの力が抜けるわ。
 リーンもそうだけど、杏子、貴女も変よ?」

亜里沙が呆れたように肩を竦める。

「杏子ちゃん、リーンちゃんに元気になって欲しいんだよね!」

「おー。よく解ってるじゃない。さーすが梨香」

意気投合した杏子と梨香が青春漫画のように爽やかに笑い始め、その横で二人のハイテンションぶりについて行けなくなった亜里沙は「もうどーにでもして」と乾いた笑みを張り付かせている。そんな状況下で、ようやくリーンにも笑顔が戻っていた。

「ありがと。Kyoko、Rika、Arisa」

「そうそう。沈んでるより笑ってるほうがいいって。リーンは」

「……けどね、杏子。私達、今、ものすごく恥ずかしいんだけど……何とかしてもらえない?」

冷ややかな亜里沙の声に我に返った杏子は、そのときになって自分達が教室中の注目を集めていることにようやくながら気づいたらしい。照れ笑いを浮かべながらゆっくりと、いかにもわざとらしい咳払いをひとつしてから席につく。

「……ま、まあ、全部丸く収まったことだし、いいんじゃない?ははは……」

「全部じゃないけど……まあ、貴女にしてはよくやったわね。後は……」

亜里沙が空席のままの席に視線を落とす。誰の席かは言うまでもない。


結局、優奈はその日自分の席に戻ってくることはなかった。先生の話では気分が悪くなって早退したらしい。リーンの心配そうな顔に気遣ってか、杏子達が優奈の話題を口にすることは、なかった。

2

冷たい目だった。

怒りも絶望も通り越した、感情のない目。

その子は私から視線を逸らすことはなかった。

冷たい目で。

感情の消えた目で。

その原因が誰にあるのかは、口に出すまでもない……


「……今回、私は一切関わり合うつもりはありません」

開口一番。優奈はそれだけを言うと部屋から出ていった。

ここは桐生院学園の理事長室。今回の指令を伝えるため、光子がリーン、優奈、光の三人を呼び出したのだが……この体たらくだ。

「仕方ないな。今回は僕とリーンの二人でやる。まだリーンとは組んだことがないからね」

「Hikaru、Yunaのこと、追いかけなくても……?」

さすがに外では光の『自称』私設親衛隊の面々に注意(脅迫とも言う)されて『さん』付けするリーンも、ここでは昔に戻っている。だが、あくまで心配そうなリーンに光はやさしく微笑んで見せた。

「本人がやりたくないと言っている以上、引きとめる理由もないさ。不協和音を無理に押し込めると、チームワークを乱すだけだからね。
 ……それに……」

「それに?」

「あのリーンがどこまでやれるようになったのか、見てみたいからね。楽しみだよ」

光の邪気のない笑顔を向けられて、リーンは気恥ずかしくなって思わず視線を背けた。今まで意識していなかったことを一度に意識しそうになって混乱したのかもしれないと、自分に言い聞かせながら。

「決まりね。それじゃあ、決行は今夜。二人とも、しっかり頼むわよ」


理事長室を辞した後、光と別れたリーンは一人廊下を歩きながら優奈の事を考えていた。

あの一件からもう三日が過ぎたが、優奈の頑なな表情は以前として和らぐ気配がない。いくら何でもと思ったが、リーンを始めとした友人達の言葉の一切に耳を貸そうとしない優奈に、いつしか誰もそのことに触れようとしなくなっていた。

「Yuna……どうしちゃったんだろう……」

ひとりごちる。当然、返事がある訳でもない。単なる自問自答のはずだ。だが、不意に応えるものが現れた。

「……昔、ね。高山さんの目の前で、忘れたくても忘れられないことがあったのよ……」

リーンが振り返った先にいた人物。リーンよりやや高い程度の背丈でトレードマークの丸眼鏡の奥に人懐こい笑顔を浮かべた女性、それはリーン達の担任の水上先生だった。

「先生?」

「……こんにちは。教室で話題になってたわよ。貴方達優等生が三人も揃って理事長室に呼び出されたから、いったい何をやったんだろうって。
 ……ねえ、内緒にするから先生には訳を教えてくれる?」

本気か冗談か判断しがたいことを言いながら、水上先生はリーンと並んで歩き始めた。

「そんなことじゃないですよ。本当に何にもありません。
 ……ところで、先生はYunaのこと、何か知っているんですか?」

リーンの問いかけに、水上先生はちょっと思案する様子を見せた後、辿るような口調で静かに語り始めた。

「……私がまだこの学園に赴任する以前のことなんだけど、旧校舎の脇にある礼拝堂が一度暴漢に荒らされたことがあったの。
 鈴風さんも知ってるはずだけど、あそこは代々高山さんのご一家が管理してるの。そして、その事件は高山さんの目の前で起こった……」

リーンは一言も喋らなかった。水上先生は言葉を続ける。

「……しばらくして、犯人は捕まったわ。そして荒らされた礼拝堂も先代の理事長の肝煎もあってすぐに建て直された。でも、目の前で一番大切なものを最悪の形で踏みにじられた高山さんの心の傷は、誰にも癒せなかった。
 それこそ、高山さんの大切なものを汚した本人が罪を悔いて謝罪を繰り返し贖罪しようとしている姿を見ても、ね」

リーンは何も言うことが出来なかった。言葉が見つからない。

「……過ちは、繰り返すべきではないわ。心の傷は、時の流れがやがて洗い流してくれるはず。でも、それにはまだもう少し時間が必要なの。解るわよね、鈴風さん」

「Reenに、何か出来ることはあるんでしょうか?Yunaの役に立てることは……」

真剣なまなざしのリーンに、水上先生は包み込むような笑顔を向ける。

「普通でいること。何かを特別扱いすることなく、いつもどおりでいること、かな?
 何の変哲もない日常は、特に意識することもないけどとても大切で貴重なものよ。和かな太陽の光の下では、凍ったものもいつか融けるわ」

そう言ってから、「それが難しいんだけどね」と付け加える。

「教室での貴女達、いつもすごくいい顔してるのよ。気づいてないかも知れないけどね。
 いい友達を持つってことは、何事にも変えがたい素晴らしいことよ。貴女達が『それは些細なことだ』って意識していれば、高山さんの心の傷もきっと癒えるわよ」

「……先生も、そんなことあったんですか?」

不意にリーンが問う。その問いかけに水上先生はちょっと困った顔をしてから、こう答えた。

「……私ね、教師になる前は世界中のいろいろなところを旅してたの。自分が何になりたいのか、自分に何が出来るのか、全然解らなくてね。
 さっき鈴風さんに言ったことも、その旅の途中である人から教えてもらったことの受け売りなの。その人はいつも笑っていたわ。『心からの笑顔には憎しみの心は生じない』って、いつも口癖のように言う人だった。もし、私がその人に出会わなかったら、今、ここに私がいることもなかったわ」

「先生の、大切な恩師なんですね、その人」

改めて言葉にされたことがよほど気恥ずかしかったのか、水上先生は自分を真っ直ぐに見詰めるリーンから少し視線を外して、「そうかもしれないわね」とだけ言った。

それからしばらく二人は並んで廊下を歩いた。お互い言葉を発することはない。傾いた陽光が窓から赤みを帯びた光として入ってくる中、無言のまま歩く。そして、廊下の突き当たりにさしかかったとき、水上先生が不意に口を開いた。

「……もし……」

「えっ?」

「……もし、今夜外に出ようと思ってたなら、止めておきなさい。悪いことは言わないわ」

一瞬、水上先生が何を言っているのか、リーンには理解できなかった。

「今夜の星の動きは最悪よ。こういうときは、決まって何かよくないことが起きるの。
 そう、たとえば親しい人が命を落としたり……」

水上先生の顔は真剣だった。明らかに冗談で言っているわけではなかった。

「せ、先生?」

リーンが何かに怯えるような表情をしたことの裏に隠された意味を知ってか知らずか、次の瞬間には水上先生は相好を崩して「冗談よ」と言う。からかわれたことを知ったリーンが頬を膨らませたが、どうやらそれすら水上先生には可笑しいことだったらしい。リーンから視線をそらして笑いをかみ殺していた。

「ほーんと、鈴風さんってからかいがいのある子ね。くくっ……」

「先生……冗談が過ぎます!リーン、もう行きますから!」

からかわれたことがよほど癪に障ったのか、リーンは振り向きもせずにその場を後にする。その後姿を見送る水上先生の顔には、一瞬前のおどけた風貌は微塵もなかった。

「……まだまだ修行が足りないわね。リーンちゃん。真実はね、冗談みたいな中に隠されているものよ……」

3

私に罪を償う術はなかった。

しかし、少しでも贖う努力はしたつもりだった。

だから……あの声に耳を傾けた。

それが、悪魔の声であるとも知らずに……


「……準備はいいかい?」

待ち合わせの場所にやってきたリーンを見た光は最初にそう言った。今夜は満月。妖しい月明かりが光の純白の詰襟をなんとも言いがたい色合いに変えていた。

「今回は相手の出方から判り辛かったからね。姉さんも苦労していたようだったよ」

「……そうなんですか?」

学生然とした格好で白木の鞘を手にした長身の美丈夫と古風なセーラー服を着た小柄な少女という組み合わせは、時間を考えると余り好ましくない様相に見えたかもしれないが、あいにくここにはそれを見咎める無粋な人間はいない。リーンと光は光が予めこの辺り一帯に人払いの結界を張り巡らせたことや戦闘状態に入ったときに備えてお互いの役割分担などを話し合った。その話が一段落ついたとき、不意に光が誰もいない闇に向かって声をかけた。

「……さて、随分待たせたようだね。そろそろ始めようか」

「えっ?」

鯉口を切って月明かりの下に晒された白刃の切っ先が指し示す先。暗い闇の中から光の声に促されたかのように異形の姿が月明かりに照らされる。膿を滲み出す疣で覆われた肌、獣のように尖った耳、耳まで裂けた口元……普通の人間ならば見ただけで卒倒してしまいそうな姿がそこにあった。

異形は光の突き付けた切っ先に畏れをなしているのか後ずさりしているようにも見える。しかし、それが甘い考えだと気づかされたのは、その直後だった。

異形が、その姿に似つかわしくないとも言える優美な翼を広げて飛んだのだ。そして一気に間合いを詰めた異形の鋭い鉤爪が一瞬前のリーンの居場所を通り過ぎる。だが、そのとき既にリーンと光は異形から各々の得意な間合いを取っていた。

「……Deofol……なんて動き……」

「思った以上に速いな……抜いただけで退散してくれれば楽だったけれど、そうはいかないか」

体勢を立て直したリーンと光が振りかえる異形と対峙する。お互い次の行動に移る隙を伺い、緊迫した時間が流れる。先に仕掛けたのは、リーンだ。

『BREAK』!

ビルをも砕くリーンの言霊が発せられるのとまったく同じタイミングで、異形が吼えた。後に残るのは、異形の咆哮の残響だけ……

「かき消された!?」

リーンに状況を認識する暇こそあれ、次の瞬間にはもう間近に迫る異形を完全に避ける術はなかった。鋭い鉤爪がとっさに頭をかばった真っ白い腕を捕らえ、目の前に深紅の花を咲かせる。

「リーン!」

リーンを横薙ぎにふっ飛ばした異形は、もう相手が戦闘不能に陥ったと判断したのか、それ以上リーンに攻撃を加えることはなかった。事実、光の呼びかけにリーンは応えなかった。

獲物を得た異形が吼える。もっと血を欲するためか、それとも……

「……これは、予想以上だ……」

戦闘開始間もなく戦力を半減された光が小さく呻いた。リーンが弱いとは思っていない。相手の力が予想を遥かに上回っていたのだ。ビルをも破壊するリーンの言霊を咆哮ひとつでかき消した手並みといい、その見た目に反した俊敏な動きといい、すべてが彼らの予想を遥かに越えるものだった。

しかし、状況は圧倒的に光に不利だった。アスファルトに黒い染みを作り出しているリーンを早急に病院へ連れて行かなければならない上、あの機動力では自分一人だけ逃げ出すことも適わない。退くことが出来ない以上、光に残された選択肢はたったひとつだけだった。

「……素直に攻める、か……」

口にした途端何故か急に笑いたくなった。自分がこんな言葉を口にするとは思ってなかったからだ。だが、決意を新たにした光の行動は迅速を極めていた。

月明かりに白刃が煌く。一度、二度、三度……すばやく異形の懐に入り込んだ光が電光石火の早業で見事な三連撃を見舞う。だが、再び間合いを離した光が目にした光景は、依然健在な異形の姿だった。

「……効いていないのか?いや、そんなはずが……」

光のその言葉は最後まで続かなかった。反撃とばかりに繰り出される異形の攻撃を躱すことで精一杯の状態に追い込まれたからだが、そんな状況下でも光の表情から余裕の色は消えていなかった。

地面を深く抉った鉤爪を躱した光が、大きく飛んだ。狙いは寸分違わず、先に斬りつけた傷口を再度刃で抉る。異形の口から、咆哮とは違った叫びが漏れた。

「やはりな。そうと判れば!」

光の斬撃の速度が増した。攻撃のパターンを読まれないように多くの場所を斬りつけながら、必ず同じ箇所を抉る攻撃を繰り返す。既に攻守は完全に逆転していた。

「……これで……!」

足元から切り上げた切っ先が綺麗な弧を描いた後、異形の片腕は本来あるべき場所から離れ、宙を舞った。聞くに耐えない叫びを上げる異形。その瞳には、真正面に立つ光への憎悪の色に彩られていた。

「……勝負あったな。このまま素直に闇に帰るなら良し。さもなくば……」

異形に切っ先を向けたまま光が言う。だが、その答えは光が望んだものではなかった。

異形が吼えた。天地すら揺るがすほどに。半ば本能的に身を躱した光の純白の詰襟が紅く染まったのは、その瞬間だった。

「……それが……答えかっ!」

脇腹を掠めた攻撃は浅かったものの、光は自分の目ですら追いきれなかった一撃に驚愕した。勿論、努めてそれを悟られまいとしたが……。隻腕となった異形が幽鬼のような形相で立ち上がる。その姿は先ほどまでとは違い、巨大に見えた。

なんて奴だ……光はそう思わずにいられなかった。それと同時に、異形の中で何かが変わったような気がした。具体的なことは解らない。だが、それは確信できるものだった。

4

私が、変わる……

私自身でさえ制御しきれない存在に……

止めてくれ……そう叫ばずにいられなかった。


体温が逃げていくのが解る。頬から伝わるのは冷たいアスファルトの感触と、自分自身の血の温もり……そこまで感じたとき、リーンの意識は覚醒した。

立ち上がろうと体を動かす。左腕が動かない。自分の体なのに鉛のように重い。ようやくのことで手近な壁に身を寄りかからせると、光が異形の腕を切り飛ばす光景が見えた。

「……Hikaru……?」

目では見えていても感覚として認識するのに時間がかかる。だがそれを無理やり現実に引き戻す光景がそこに現れる。


 ……止めろ!止めてくれ!


「……えっ!?」

リーンの耳に届いた、悲壮な声。今にも消えてしまいそうな、魂の叫び……リーンは確かにそれを聞いた。

「……今の声……まさか……」

確かに聞き覚えのある声だった。しかし、リーンにそれを確認する時間は与えられなかった。今、自分が為すべきこと……それは目の前に存在する異形を本来あるべき場所に帰すことだったから。そして、そのためにリーンの目の前で苦境に追い込まれている光を助けなければならなかったからだ。

『HOLD』!

予想外の方向から発せられたためか、今回は相殺されることはなかった。不可視のロープが異形の体を捕縛しその動きを止める。それは一瞬しか保たなかったが、光がその瞬間を見逃すはずがなかった。


月明かりに、白刃が煌いた……。


「リーン、大丈夫……なのか?」

異形が血飛沫をほとばしらせてその動きを止めた後、リーンの元に駆け寄った光が真っ先に発した言葉がそれだった。よほど心配だったのか、珍しく表情に余裕がなかった。

「大丈夫だよ。Hikaru。Reen、こう見えても結構丈夫なんだから」

そう言って腕を上げようとしたリーンだったが、やはり左腕は動かなかった。

「……全然大丈夫じゃない!」

珍しく声を荒げた光がリーンの左腕を取った。突然のことにリーンが小動物のように身をすくませる。怯えたリーンの顔を見て自分のしたことに気づいた光がすぐにリーンの腕から手を離したが、その手はべっとりと血に塗れていた。

「……すまない。だけど、早く何とかしたほうが良いな。とりあえず……」

光が詰襟のポケットからハンカチを取り出してリーンの上腕を縛って止血する。そのとき、リーンは光の詰襟の脇腹が紅く染まっているのに気がついた。

「……Hikaruも怪我、してるよ……」

「僕のは浅い。気にするほどでもないよ。……これで良し。後は最後の後始末だけしたら……」

光の言葉は最後まで続かなかった。異様な気配が辺りを包み込む。それは、さっき確かに消したはずの気配だ。

「Deofol!?」

「……馬鹿な!手応えはあった!」

驚愕するリーンと光。しかし、現実は無常にも二人の前に異形の姿をあらわにする。腐臭の混じった息、妙な具合に折れ曲がった四肢は、二人を恐怖させるには十分だった。


 ……止めてくれ!その子達を傷つけないでくれ!


「……今の声……」

「どうした?リーン?」

光が問いかける。聞こえていないのだ。この声が。リーンの耳にだけ届くこの悲壮な声は、そう……確かに……

「……おじさん……?」

今のリーンには分かった。目の前の異形の正体が。そして、自分に何が出来るかが。

「リーン?」

抜き身の白刃で異形と対峙する光が一瞬リーンに気を移す。それが合図となった。


異形の鉤爪が振り下ろされる。しかし、それは見えない壁に遮られて光達には届かない。リーンの言霊だ。そして、その壁は徐々に形を変え、いまや異形を包み込もうとしている。

「……リーン……すごい。力が、増した?」

光が感嘆の声を上げる。

「おじさん……Reenが、今その苦しみから解き放ってあげる!
 聞こえたもの。おじさんの声。おじさんの苦しみ。それに……!!」

異形が吼えた。その叫びに壁が揺らぐ。だが、以前のようにその頚木から逃れることは出来なかった。

「Hikaru!!」

リーンが呼ぶ。優奈と同じく、この世界に存在してはならないものを元の世界へ帰すことの出来る、彼の名を。

「……ああ!!
 天地に宿る八百万の神々に申し奉る。ことわりに逆らいしものを、あるべき場所へと帰し給え!!

白刃の切っ先が空を切る音がまるで鈴の音のように心地よく聞こえる。全身を使った光の剣舞。月明かりで銀に輝く切っ先が空を舞い、地を駈ける。その切っ先の描く軌跡そのものが、この世ならざるものを封ずる結界となるのだ。

封!!

裂帛の気合とともに光が刀を地面に突き立てる。黒々としたアスファルトなどまるで存在しないかのように易々と突き貫いた切っ先が、結界の最後の一点を完成させる。


――その瞬間、月明かりが膨れ上がった――


月より照らされた光が天空からの槍の一閃のような勢いで地面に突き刺さる。異形のみを狙い定めたその一撃が消えた後、残ったのは今にも消えてしまいそうな蒼白い炎だけだった。

「リーン、僕の出番は終わった。後は、君の仕事だよ」

刀を地面から引き抜いた光が肩で息をしながらリーンに向き直りながら言った。今目の前にあるのは、もはや異形の姿を失った、か弱い輝き。リーンはまだ痛む腕に構うこともなくその輝きを抱きしめる。

「……思い残したこと、あるのかな?聞いてあげられるかな?」


 赦して欲しかった……あの娘に……


リーンは輝きが弱まる中、声を聞く。じっと、待つように。


 過ちは取り戻せないと思う。あの娘の心を凍てつかせたのは私が愚かだったから。それでも……


「……Yunaは……言い出せなかったんだと、思う。Reenは、よくそのことを知らないけれど、きっと。だから……」

リーンは、今回の事件の話を聞いたときの優奈の顔を思い浮かべながら、言葉を紡ぐ。消え入りそうな輝きが一瞬柔らかく揺らいだかと思うと、ゆっくりと消える。その欠片すら残さぬ消えた後を、一筋、光るものが追った。


「……リーン……」

光が声をかける。かがみ込んでいた顔を振り払うように、リーンは努めて明るく声を出す。

「Hikaru、これで今日はおしまいだね。Mitsuko、心配しているよ……ね……?」

最後まで言わせず、光がリーンを抱きしめていた。

「H……Hikaru?」

「あまり心配させないでくれ……姉さんや優奈だけでなく、僕も……」

「ごめんなさい……」

月明かりの中に浮かぶ二つの影。それを見てる者がいるとは、二人とも思いもしなかった。

Epilogue

いつもの朝。けれど、何かが違っていた。冬の朝、いつもの人影が、そこにはなかった。ふらりと消えた、と誰かが言った。目的も知らないまま、理由も解らないままそれは真実であるかのように伝播し……やがてそれすら口の端に上ることがなくなった。

「……いなくなると、さびしいわねぇ」

杏子が白い息を吐きながら言う。もう風物詩のようになっていた名物男がいなくなったことを省みる者もいない。そもそも名前すら知らないのだ。縁がなくなれば、それまで。それ以上関わり合うのも馬鹿らしい。そんな風潮すらある世の中で、彼女はちょっと寂しいと思う気持ちを口にした。

「でも、名前も知らないのに。杏子ちゃん、心配性だね!」

「最近物騒だから……妙な疑いをかけられる前に退散した、のかしらね?」

亜里沙は最近のニュースと世相をいなくなった『名物男』と照らし合わせる。そんな風体には見えなかったが、この世の中だ。分かったものではないという口調がありありと見て取れた。

「でも、今日リーンが休みだって言ってたし……関係あるのかな?優奈も今朝はもういなかったし」

「リーンちゃんは犬に噛まれた、って言ってたよ?」

「『犬に噛まれた』……ねぇ……」

亜里沙が意味深な笑みを浮かべる。嫌な想像をしていることは、杏子もすぐに判った。

「亜里沙……多分、それはないと思うわよ?」

「あら、そうかしら?」

「ねぇねぇ、何の話?」

梨香が分からず口を挟む。その屈託のない顔に二人は揃って呆れた表情をする。

「……梨香……ほんっとうに貴女が羨ましいわ……」

杏子が何を言いたいのか、それすら梨香には分からなかった。


三人の投稿の様子を、優奈は教室の窓から見下ろしている。彼女も今日リーンが欠席することはもう知っている。その理由も。光とリーン、二人が揃って手傷を負って戻ることなど、早々あるものではない。自分が参加しなかったことが招いた結果、それを優奈は噛み締めていた。

「……辛いわね。言いたいことが言えないって」

誰かが入ってきたことすら気づかなかった。優奈ははっとして振り返る。そこに立っていたのは、日誌を抱えた一年A組担任、水上先生だった。

「あら、貴女でもそんな顔をすることがあるのね。意外だわ」

「水上先生……」

「高山さん、部活でもどこか壁を作っているようだもの。そんなに心配?鈴風さんと……桐生院君のこと……」

優奈の表情に緊張の色が宿る。冗談好きな、戯け教師……クラスのイメージとは違う一面を見せる担任の顔。

「水上……先生……!?」

ゆっくりと自分に近づく水上先生。優奈は何故か本能的に拒絶の意志を示していた。その手が自分に伸びたとき、優奈は咄嗟に身をすくませた。

あたたかい手が頭を撫でる。それに添えられた言葉が凍てついた優奈の心を溶かす。

「終わったことは、もう後戻りできないけれど……その後だってできることがあるものよ。『彼』は鈴風さんが解き放ったけれど……すれ違ったままではお互い辛いでしょう?時には言葉に出すことも、必要だと思うわよ……忘れ物、もう取りに行っても良い頃だと、先生は思うけれど?」

「水上先生……」

「先生が許す。行ってらっしゃい」

優奈は一礼すると教室から出て行った。その先で杏子達とすれ違う。

「……水上先生今日ははやーい」

「あら、おはよう。貴女達も早いわね」

「水上先生、優奈は?」

亜里沙が外を指差して言う。優奈が始業前に教室を出て行くことなど、滅多にないことだからだ。

「高山さんは、忘れ物を取りに戻っただけよ。先生がと・く・べ・つに遅刻にしないであげるからね」

「えー?優奈ちゃんだけー?」

梨香が唇を尖らせる。それに杏子が茶々を入れる。

「優等生の特権、ってやつ?梨香には一生無理だわ」

不満そうな梨香に全員の笑い声が重なる。その中で、水上先生は一人言葉にしない別のことを考えていた。


……さて、桐生院さん、次の一手はどうするのかしら?手駒が減りすぎると、挽回できるものもできなくなるわよ……


言葉にしないその言葉、その意味が分かるものは、幸か不幸か、その場にはいなかった……

To be continued...