インド洋に消えた翼 〜Hermes〜
Prologue
相手を理解するまでには相当の時間が掛かると思う。
努力して、頑張って、それでも理解できないときもあるけれど……やっぱり理解できたときの嬉しさには代えられない。
……でも……それが壊れるまでには、まったく時間なんて関係ない。
そう。たった一つの選択が、すべてを台無しにしてしまう。そのことに誰も気付かなかったのは……多分、気付こうとしなかったからに違いない。
だって、気付いてしまえば……心が……痛いから……
1
4月のインド洋の波は高い。地中海なんか比べ物にならないくらいに。冬のスカパフローとも、また違った感じがする。
私がここに来るのは……いったい何度目だろう。ちょっと思い出せない。思い浮かぶのは、中国とはまた違った、東洋の端っこにある国の人たちの人懐っこい顔。そして、私の終生の友達……。彼女は、今、どこで何をしているのだろう?今の私にはそれを知る術はない。何故なら……私の国、大英帝国と、彼女の国、大日本帝国は、今、戦火を交えているのだから……
私は波濤を蹴って走る船体(からだ)から心を空に飛ばす。潮風が気持ちいい。自慢の金色の髪と純白の翼が宙を踊る。空から見る私の体は……いつ見ても一目で判る。平らな飛行甲板、巨大な艦上構造物……そう。私は……
「ハーミス!ハーミス!……なんだ。そこかぁ」
不意に私を呼ぶ声がした。振り返る。そこに立っていたのは純白の士官服を身につけた青年士官。確か、つい先日乗り込んできた新米パイロット。珍しいこともあるものね……私はそう思わずにはいられなかった。
私が無言でしげしげと眺めていることが気になって仕方がないのか、青年士官が再び口を開く。
「……な、何か?」
はあぁ……とため息をひとつ。どうやらまだ解っていないらしい。仕方なく、私は口を開いた。
「……貴方ね、仮にもパイロットでしょう?何故飛行服を着ないの?それから!」
私は青年士官の前に人差し指を突き出した。
「……私はね、貴方より、ずーーーっと年上なの。少しはそれらしい口調と配慮をしたらどうなのっ!?」
青年士官はきょとんとしている。それから一瞬の後……不意に笑い出した。
「……なっ……何がおかしいの!」
「……そりゃぁ……俺の愛機は故障して貴女のお腹の中。おまけに薄情な連中はそんな俺をほったらかして先に行ってしまう。そんな訳で、今次作戦中俺の出番はありません。故に、飛行服を着ても意味がありません!」
言い切った。まったく。これだからパイロットって……。
「……解りました。それなら邪魔にならないように隅っこでじっとしてなさい。敵が出てきたときうろちょろされていると私が困るわ。それで、何か用なの?」
「了解しました!
いやぁ……実は用というほどでもないのですが。ただ、運命とは皮肉なもので、と思いまして。ほんの少し前まで俺たちパイロットは日陰者扱いされてきた。それが今や……」
青年士官はそこで言葉を切った。言いたいことは解る。だけど、それはないものねだり。言っても仕方のないこと。
「解っているのなら、空から彼らが現れないことを祈っていなさい。パールハーバーで、マレー沖で、縦横無尽に暴れまわった彼らを甘く見ていると死ぬことになるわよ」
言いながら、私は大日本帝国のマレー進攻を食い止めるべく出撃し、そのまま帰ってこなかったプリンスオブウェールズとレパルス、そして自分がいなかったからみすみす二人を死なせたのだと泣いていたインドミタブルの姿が浮かんだ。彼女の妹たち……決して侮ることはできはしない。知らず、私は汗のにじむ拳に力が入っていた。
運命とは皮肉なもの……か……
青年士官が去った後、私は彼の言った言葉を思い出していた。彼とはずいぶん長く話し込んでいたらしい。南方特有の日差しは陰り、夜の帳がもうすぐそこまで迫っていた……そして、戦雲も……
2
時間が過ぎるのは早い。光陰矢のごとし……って、彼女は自分の国の古い言葉で喩えたことがあったけれど、今、本当にそう思う。そして、4月9日……この日は私にとって一番長い一日になった。
既に日本軍は5日に我が領内セイロン島のコロンボ港を空襲。我が大英帝国軍は大きな被害を受けていた。今日も、朝からいやな情報ばかりが届く。先に情報を得ていた私たちは急遽停泊していたトリンコマリーの港を出港して辛くも難を逃れたけれど、状況は圧倒的に不利だ。
「……やるわね……さすがだわ……」
敵ながら天晴れ、としか言いようがない。コロンボ港を空襲した後、敵の空母は赤城、翔鶴、瑞鶴が離脱し、今は蒼龍と飛龍が残るのみ……加賀がいなかったとはいえ、彼女たちは太平洋を渡りはるばるパールハーバーまで奇襲攻撃を敢行した百戦錬磨のつわもの揃い。半数以上が離脱した今でも、十分すぎる脅威。おまけに昨日友軍爆撃隊が奇襲攻撃を敢行した……らしいけれど、命中弾はなく、逆に返り討ちにあった……らしい。混乱のため情報に信憑性が薄れているのがもどかしい。
「……どうするにしても彼我戦力差は無限大……か。仕方がないわね……」
敵の空襲を避けるべく急遽抜錨出港した私は、結局まともに使える航空機を手にすることができなかった。それでも、やるべきことはやらなければならない。
そのとき、私はかの置いてけぼり青年士官と顔を合わせた。結局、彼は新たな飛行機を手にすることなく、今も私と一緒にいる。お互い、難儀なことね。私がそう微笑みかけようとした……けれど……
「……な、何ですか?その物々しい格好は……」
これだ。まったく。緊張感がないったら。確かに、今の私の格好は普段の軍服姿ではなく、直接戦闘も意識した甲冑姿。十字軍を思い浮かべれば理解しやすいかと思う。もっとも、あんなに装飾性はないけれど……けれど……この期に及んで……
はあぁ……私は深いため息をついた。
「……貴方……ねぇ……」
私が強い脱力感にとらわれていることなど気にかけるでもなく、青年士官はいつもマイペースだった……
「……はぁ……貴方なら、私が一瞬で沈んでも生きて国に帰るような気がするわ……」
「……悲壮な覚悟ですね……」
「……貴方ね、フォースA(大英帝国極東艦隊の高速部隊のこと)のドーセットシャーとコーンウォールがあっという間に屠られたのを知らない訳はないでしょう?
まったく……私も善処はするけれど、飛行機のないパイロットなんて居場所がないんだから、いつでも逃げられるように準備だけはしておきなさいよ……」
「飛行機はありますよ。ただ飛べないだけです」
「それはないのと同義なの……まったく、貴方はそれでも……」
誇り高き大英帝国海軍士官なの?とは言えなかった。何故なら……
「……来る!」
空を見上げる。一瞬で血の凍るようなこの感覚……間違いない。彼らが……来る!
「……えっ?」
まだ理解していない。まったく。
「早く邪魔にならないところに避難しなさい!それとも対空戦闘に協力する?」
ようやく理解したらしい。彼が走り出すのと、レーダーから敵機接近を知らせる警報が鳴り出したのはほぼ同時だった。
敵機が視界に現れるのは……もうすぐだろう。本来ならば勇敢な大英帝国の勇者たちが私の飛行甲板を蹴って飛び出すのだけれど……今はそれは叶わぬ夢でしかない。
「……来なさい!鳳翔の背中から転げ落ちても飛び立つことを恐れなかった貴方たちが、この20年でどれほど成長したのか……私が見てあげるわ!」
3
戦機、我らにあり……その思いは未だ揺るがず。しかし、何故だ……
行く?あたしは構わないわよ。
敬意を表する必要性を認む……か?
当然。来るわよね?
断る理由……あろうはずがないな……
そんなこと言って……素直じゃないんだから……
息が上がってきた。いったい何機叩き落したか……あんまり多すぎて途中で数えるのを止めたから、もう解らないな……
日本軍の攻撃は熾烈を極めた。急降下爆撃機の機体自体も近代的な全金属製の低翼単葉。伝統を重んじる我が大英帝国とは隔世の感がする。けれど、それ以上に驚いたのは、彼らの突っ込みの鋭さだ。我が大英帝国では考えられないほどの深い角度で逆落としに突っ込んでくる。まったく、命が惜しくないのかしら?それでいて、命中率は神技の域に達している。よくもまぁここまで訓練したものだわ……パールハーバーでアメリカ海軍がなす術もなくこてんぱんにやられたのも当然ね。
そう。最初の敵機来襲からそれほど時間は経過していない。10分にも満たないだろう。軽空母ハーミスを含むフォースB(大英帝国極東艦隊の低速部隊のこと)所属の小規模な艦隊を発見した大日本帝国海軍第2航空戦隊の蒼龍と飛龍から発艦した99式艦上爆撃機隊は、狙い違わず随伴する4隻のタンカーを屠り去り、駆逐艦バンパイア、そして彼女が護る軽空母ハーミスに止めを刺すべく、情け容赦のない攻撃を敢行していた。その命中率は実に80%を超える凄まじいものであり、もはや大英帝国側に勝機の欠片も見出すことは不可能であった。
上空支援のない状況を少しでも打破すべく、ハーミスは自らの船体から離れ、空を覆い尽くす日本軍機を叩き落す。だが、戦況は時を追うごとに悪化の一途を辿り、彼我の戦力差はもはや彼女一人の働きでは覆すことができないほど、広がっていた……
太陽が傾き始めていた。夜が来れば……逃げられるかもしれない。私の船体は……うん。まだ大丈夫。さすが艦長ね。適切な指示だわ。傾斜さえ何とかなれば、いける……かも……
そこまでしか、考える時間はなかった。自動車が真上を駆け抜けるような音……私は咄嗟に剣を振るってその音を両断した。
「……来たわね……鳳翔の妹たち……」
さっきまで音があった先……彼女たちは勝者の笑みを浮かべていた。よく似た顔立ちの二人……蒼龍と飛龍……
「お久しぶりです。……そして、さよなら……ですか?」
後ろで長い髪を無造作に束ねた、風のような雰囲気を漂わせた娘……蒼龍の手にある砲口からは、まだ硝煙の匂いが漂っていた。
「貴女の最期を看取るのが我ら……これも、奇縁か……」
もう一人……飛龍は、瞑目するようにそう言った。
「ちょっと……飛龍……しばらく会わない間に性格が変わったんじゃないの?それに蒼龍、言ってくれたわね。私がそんな簡単にやられるような船に見える?」
もちろん、強がっているだけ……多分、二人にもお見通しのはず。自慢の純白の翼は灰色に煙り、白く輝いていた甲冑も、その下の戦装束も最前までの輝きを失っている。けれど、まだ私の闘志は輝きを失ってはいない。
「……貴女を沈めると鳳翔さんが泣くだろうなと思っているけれど……これも運命だと思って諦めてください。でも、鎧袖一触といかないのはさすがですね。だからこそ……わざわざ出向いた甲斐があるってもの!」
「……我が帝国が生きるためには……貴女にはぜひともここで沈んでいただく!」
「上等じゃない!私だって女王陛下の海の護り手として、ここは一歩も退く訳にはいかないのよ!」
それが合図。お互いに間合いを取り、そして……私にとって最期になるであろう戦いの幕は上がった。
最初の一撃は蒼龍の砲撃。まったく。あの装備は『友鶴事件』と『第四艦隊事件』で設計変更になったって聞いていたけれど……我が情報部もいいかげんなものね。帰ったら文句のひとつも言ってやろう。
蒼龍の一撃を躱したところに、飛龍が放った疾風が襲う。これは……我が親愛なる旧植民地軍(我ながら面白い言い回しね)が言っていた『ZEEK』!……何とか躱したけれど、次はどうなるか判らない。面白いわ。ほんの少し前まで国を閉ざしていた東洋の神秘の国は、確実に力をつけているわね……って、感慨にふけっている場合じゃない。特に蒼龍!ジェーン年鑑の怪しい図面と解説を信じる訳じゃないけれど、あの装備、飛龍とここまで連携を組まれたんじゃあまったく近づけない。
「ちょろちょろと……後は若い者に任せてご老体は隠居してくれ!」
立て続けに砲撃を加えながら、蒼龍が言ってはならないことを口にした。
「言ってくれるわ!誰が『ご老体』よ!」
「目の前にいる、条約前の御仁!」
……さらに追い討ち。
「何ですってぇ!」
蒼龍の砲撃を宙を滑るように斬り飛ばし、連続発砲の間隙を縫ってそのまま肉薄する。
「……ちいっ!その
……まだ言うか。それでも、蒼龍は間一髪で私の剣戟を防ぐ。飛龍もこの距離では攻撃できない(攻撃したら……蒼龍も道連れよ!)。ふふっ。そういえば、案ずるより産むが易いって、以前、鳳翔が教えてくれたわね。私を怒らせたのが敗因よ……とは、言わせてくれなかった。
突然、白い羽が宙を舞う。熱いものがこみ上げ、背中に激痛が走る。振り向くと……そこには飛龍が会心の笑みを浮かべていた。
「……何故……」
「……我が海鷲……甘く見るな……貴女だけを射抜くことなど、容易いこと……」
飛龍の手には、日本独特の様式で書かれた札があった。私は何が起こったのかを理解する。
……そう。彼女たちの技量を……私たちの尺度で測ってはいけなかったこと……それを見落とした私の、負けだった……
片方の翼を失い、私は自分を保持できなくなった。
「……さすがに強いわ……鳳翔も、鼻が高いでしょうね……」
風が……重い。力が抜けそうになる。けれど、これだけは伝えたい。私の終生の友人の妹たちへ……
「だけど……驕らないことね。もう一度、よく考えてみなさい。自分たちの強さの裏に潜む、脆さ、弱さを……」
「……ハーミス……さん……」
ふふっ。飛龍……やっと昔のように話してくれたわね。貴女の一撃、効いたわ……って、これを言うとまた驕る材料になるかしら?
もう……限界……翼に力が入らない。ふと、視線を私が本来いるべき場所……海に向ける。そこでは、蒼龍たちから飛び立った急降下爆撃隊に痛撃された私の船体が断末魔の体をなしていた。
あのちょっと間抜けな青年士官は、うまく退艦できたかな……そういえば、最後まで名前を聞かなかったな。大空に舞い上がる彼が海で死ぬことになったとしたら……ふふっこんなときに何を考えているんだろうな……私……
それからまもなく、インド洋に沈む太陽よりも早く、世界最初の純空母の座を大日本帝国の鳳翔と争ったハーミスは、その姿を祖国より遠く離れた波濤に消した……
この海戦により痛烈な敗北感を与えられた大英帝国極東艦隊司令長官サマービル大将は残存する全艦艇をセイロン島から遥か遠いマダガスカル島まで撤退。その後、大日本帝国がアメリカ合衆国との激戦に敗北して制海権を失うまで戻ってくることはなかった。そして……この戦いに勝利した蒼龍と飛龍にも、運命の日は訪れる……
Epilogue
その日、ミッドウェイの海は紅く燃えていた。
赤城、加賀、蒼龍と一挙に失った瞬間。太平洋に敵なしと謳われた大日本帝国海軍機動部隊の栄光も、過去のものとなった……
「あのとき、ハーミスさんが言っていたのは……このこと……ね……」
飛龍は喧騒と怒号に包まれた艦橋の様子に目もくれず、そうつぶやいた。偵察が杜撰だった。作戦も杜撰だった。でも、私と蒼龍は準備ができていた。私に座上する山口司令もそれが解っていた。だからこそ、再三出撃許可を得ようとした。けれど……この惨状は訪れた。それが必然であったかのように。あくまで冷酷に。
「……飛龍!」
名前を呼ばれて振り返る。そこには闘志の塊のような山口司令が立っていた。
「……まだ、やれるな?」
「……現在、艦機能に影響する損害なし。作戦行動に支障なし」
山口司令の前では、いや、帝国の人間の前では、私はこの口調を崩さない。機械に徹すること……それが私に求められたことだから。
「……よし。各艦に連絡!『我レ、今ヨリ航空戦ノ指揮ヲトル』だ!急げ!敵は待ってはくれんぞ!」
……この戦いの後、蒼龍、そして飛龍も、再び日本に戻ってくることはなかった……
大日本帝国海軍機動部隊が壊滅したこの日より、歴史の歯車は大きく動き出す。が、その端緒は、あのとき、既に開かれていたのかもしれない。
そう。あのインド洋に、純白の翼が消えたときに……
Fin...