大陸に咲いた花 China Bloom 〜加賀〜

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あの戦線には死神がいる……その噂が立ったのはいつの日か、もう誰も覚えちゃいない。ただ、敵機を迎撃しに行って帰ってこない奴がいる。ただそれだけのことだと思っていた。

そう。そのときまで。純白の光の翼をはためかせ、口径8インチはあろうかという巨大な砲熕兵器を自在に操る敵――これが『死神』の姿か。その姿は漆黒の長い髪を頂点と根元で結び、その東洋的美しさとあいまって一見華奢にも見える……が、その手にした得物は凶悪の一言に尽きた。俺はその美しさと凶悪さに魅入られて、一瞬、ここが戦場であることを忘れた……

*

「やあ。ジャック」

滑走路で佇んでいた俺になれなれしく声をかけてきたのは、戦友のフリードマンだ。ここに来る前は俺と同じくエアサーカスをしていたらしいが、腕はそれなりに確か。ここじゃ撃墜王にはなれないが、この極東の大陸で今まで死なずに生きていられる腕前は持っている。

ちなみに、フリードマンが『ここじゃ』撃墜王にはなれないと言ったが、これが正規軍ならとっくの昔にトップエースだ。ただ、ここは正規軍じゃない。ただ、それだけのことだ。

俺はフリードマンの呼びかけに生返事をしつつ、ふと、空を見上げた。ここは見慣れたアメリカの空じゃない。生きるか死ぬかを金に換算した、アジアの空だ。

俺の名はジェイムズ・ライトマン。去年までアメリカ南部を巡るエアサーカス団に所属していたが、今は訳あってこの極東の空で命がけの飛行をしている。いや、エアサーカスでも命がけだったが、あそこじゃ墜落して死ぬ危険はあっても、撃墜されて死ぬ危険はなかった。そんな俺が志願してこんなところにきていることを笑う者がいなかった訳じゃないが、エアサーカス団では一生お目にかかれない大金を手にする機会があると聞けば、俺は迷わなかった。そう。今の俺には大金が必要だったからだ。

ここはアジアの果て、中華民国。そして中華民国と共通の敵と戦っている我が祖国アメリカが非公式に送り込んだ航空兵団が、俺が所属するフライング・タイガース。公式には志願した民間人の集団となっているが、トップは紛れもないアメリカ陸軍の軍人だ。つまり、俺達は非公式な傭兵、ということだ。

「どうした?ジャック」

フリードマンが俺の行動を訝しむ。それを俺はただなんでもない、とだけ言って制した。

「どうした?ジャック。昨日から変だぜ?。ま、昨日の戦いは生きて帰れただけでもめっけもんだったからな。俺も初めてジャップの『死神』とやらを見たが、ありゃあ人間じゃない。第一、人間は空なんざ飛べないからな」

そう言ってフリードマンは笑った。俺は昨日はフリードマンとは違い基地上空の防衛戦に参加していたから、爆撃隊護衛任務のフリードマンとは戦場が違う。そして、フリードマンは見たのだ。噂の『死神』を。

「……フリードマン、今夜は俺がおごる。その話、もうちょっと聞かせてくれないか?」

俺がそう言うと、フリードマンは煙草焼けした黄色い歯をむき出して笑った。

「そう言うと思ったよ。さ、心行くまでおごってもらおうじゃないか」

かかと笑うフリードマンに肩を叩かれ、俺達は基地に戻った。

*

翌日は俺達の共通の敵、大日本帝国軍の爆撃が目覚し時計の代わりだった。朝っぱらからご苦労なことだ。俺達は爆撃の合間を縫ってまだ生きている愛機に向かう。エンジンは十分に温まっているとはいえないが、地べたに這いつくばって死ぬよりは空で散りたいのがパイロットの心情というものだ。上空から猛烈な爆撃、銃撃、いや砲撃の続く中、俺は愛機に乗って空に舞い上がった。上空には10機の九六式陸上攻撃機の他、護衛に例の新型(後に零式艦上戦闘機だと知る)が3機。最新鋭機の揃い踏み。護衛がやけに少ないと思ったのは、俺の見間違いだった。それで十分だったのだ。何故なら、連中には『あいつ』が加わっていたからだ。それを思い知ったのは、俺の後に続こうとしたフリードマンが、銃撃にしては強力すぎる砲弾に叩き潰されてからのことだった。

「フリードマン!」

無線機は何も答えない。俺は歯噛みして砲弾の飛んできた方向を探した。そこには……たしかに、いた。太陽の陰になってよく見えないが、死の翼を広げ天空を舞う、死神が。

俺は砲撃を躱して死神の上に位置しようと必死だった。下にいては殺られる。それは直感だったが、正鵠を射ていた。空ですれ違った『死神』――それは背に光の翼を生やし、漆黒の髪を頂点と根元でリボンで結ぶという非常に少女らしい姿でありながら、右腕に口径8インチはあろうかと思われる巨大な砲熕兵器を、左腕に5インチはあろうかと思われる巨大な銃、いや、こちらも砲熕兵器と呼んだほうがよいだろう。そんな物騒なものを手にした、常識では考えられない姿をしていたからだ。フリードマンを叩き潰したのは左腕の銃だろうが、それでも常軌を逸していた。

「……今の俺は……おまえを相手にしている暇はないんだ!」

そう言って俺は今まさに基地を爆撃しようとしている九六式陸上攻撃機に向かおうとする。しかし、そうはさせてもらえなかった。新型戦闘機と例の『死神』が次々と僚機を墜としてゆく。その正確無比さはあまりにも冷酷で、俺の怒りを増大させた。

「こ……の……!」

隙を見せた敵新型戦闘機の背後につき、今まさに機銃の発射ボタンを押そうとしたとき、『死神』がその黒く長い髪を残像のように滑らせて俺の前に立ち塞がる。その右手に持った巨大な得物が俺を捉える。冗談じゃない。あんなもので撃たれたら跡形もなく消え去るだろう。しかし、俺は臆することなく『死神』を真っ正面から睨み付ける。まだ少女の面影を残す東洋人の女。そうとしか見えなかった。そして、俺と目を合わせた途端、『死神』は一瞬、見てはいけないものを見たような顔をして、その得物をぶっ放した。

「マリー!」

俺の記憶の中で最後に叫んだ言葉。それは娘の名前だった……

*

梟の鳴き声が聞こえた。体の節々が痛い。痛みを感じると言うことは、俺はまだ生きていると言うことか。

俺を狙った『死神』の攻撃はコクピット直撃から僅かに逸れて、片翼をもぎ取った。だから脱出する余裕が生まれたが、機体が炎に包まれたのもそれからまもなくだった。自分でも死んだと思っていた。が、我ながらしぶといものだ。俺は体にまとわりつく落下傘をナイフで切り離し、地面に降りる。

「あの『死神』……」

俺を狙った攻撃には確かにためらいがあった。一撃で撃墜させず、わざと逸らせたように感じた。何故かは解らない。顔を見てしまったからか。それにしては妙な話だが、こうして生きていることだけは事実だ。俺は飛行服の胸ポケットから一枚の写真を取り出し、話しかける。それには俺には不似合いなほど可愛らしい少女の姿が写っていた。ただ、多少影があるように見えるのは、写真写りのせいだけではない。

「マリー。父ちゃん、まだ生きてるぞ。たんまり稼いで、帰るからな」

娘の名を呼び、写真に軽くキスをしてまたポケットにしまう。さて、と移動しようとして、軽い痛みを感じた。どこか痛めたらしい。それに、ここは梟の鳴き声が聞こえたことからも結構な広さのある森の中らしい。自軍の基地がどちらにあるのか。間違えて捕虜になるのも馬鹿らしい、と懐から取り出したコンパスは……脱出の衝撃で壊れていた。

「さて、どうするかな……」

俺がそう言ったとき、後ろから声がした。

「Freeze(止まりなさい)」

反射的にピストルを抜こうとしたとき、声が続いた。

「Discard your weapon and surrender to me(武器を捨てて、投降しなさい)」

女の声だった。そして、俺の挙動を見てか何かを外すような金属音がする。俺は言うとおりにピストルを地面に投げ捨てる。その様子を見てから物陰から出てきた声の主は……今朝戦った『死神』だった。

*

「何故助ける?」

俺はまず聞いた。『死神』は5インチ砲で武装していたが、それを下ろして俺の治療をしている。下ろしたときの地面の沈み方から、相当な重量だと知れる。これを更に重い得物と一緒に振り回し、的確に射撃を行っていたのだ。人間業とは思えなかった。

「わたくしは脱出した兵の救助に出てきましたの。ただ、それだけですわ」

「俺は敵だぜ?生きていれば、またあんたの仲間を殺す。……煙草、いいか?」

特に返事がなかったので、俺はポケットから煙草を取り出し火を付ける。銘柄はラッキーストライク。今の状況を的確に表す素晴らしい名前だ。紫煙が空に昇っていく中、『死神』は口を開いた。

「わたくしの敵は……国家ですわ。人間じゃ、ありません……」

「だが、戦争して銃を撃つのは俺達人間だ。違うか?」

「わたくしは、人間を相手に戦うよう命じられていません。敵はあくまで国家です」

「詭弁だな。国家を相手にすると言うことは、そこに属する人間を相手にすると言うことだ。国家だけを相手にはできない」

「それでも、わたくしが戦っているのは敵兵器と国家です。人間ではありません」

「じゃあ、何故離陸中のフリードマンを撃った?飛行機を飛ばしているのは人間だぞ?」

俺はやや怒りを込めた。いい奴だった。少々茶目っ気が過ぎるところもあったが、いい奴だった。それを虫を潰すように叩き潰したのは……目の前にいる『死神』だ。

「見えない奴なら殺しても構わない、ってか。それじゃあ俺に直撃させなかったのは『俺を見たから』か?」

俺は胸ポケットから写真を出した。娘の写真だ。

「これは俺の娘だ。病弱で、医者に罹るのに金が要る。俺がここで死んだら、娘も死ぬんだ。戦場じゃ、俺のように何かを背負って戦ってる奴だっているんだよ!それを殺して『敵は国家』です、か?寝ぼけてるんじゃないよ!」

「そんな……わたくしは……」

明らかに狼狽している。しかし、俺もこれ以上『死神』を責めるつもりはなかった。

「止めた。言ったところで死んだ奴が生き返る訳じゃない。だがな、これだけは覚えておいてくれ。『国家を相手』と言ったところで、結局相手にするのは人間だと言うことを」

それからの『死神』は終始無言だった。黙々と手を動かし、俺の治療を終えると、立ち上がってある一点を指差した。

「……あっちに向かって帰れ、か。どうも気分を悪くしたようだな。それだけは謝る。あんただけ責めても仕方ないことだからな」

それでも『死神』は無言のままだった。俺は足を一歩進めたところで振り返り、一つだけ聞き忘れたことを聞いた。

「なぁ、あんたの名前、教えてくれないか?それが軍事機密だというなら、俺だけの胸に秘める。約束する」

駄目か……そう思って振り返った俺の背中に、声が届いた。

「加賀。それがわたくしの名前……」

「カガか。聞き慣れないが、良い名前だな。ありがとう」


それが俺が加賀と出逢った最初で最後だった。俺は大日本帝国が敗北するまで中国大陸で戦ったが、風の噂では加賀は戦争の半ば、ミッドウェイの海に消えたと聞いた。それでも、中国大陸に咲いた一輪の花のことは、俺は終生忘れることはなかった。

Fin...