珊瑚海紅く染めて 〜Lexington〜 Scene.2『第二次珊瑚海海戦』
*
珊瑚海に陽が沈む。
帰投した私達を待っていたのは、開戦以来ようやく掴んだ勝利の報に喜ぶ顔、顔、顔。
今までの積もり積もった鬱積を晴らすかのように、士官から兵に至るまでが、私達の帰りを待ちわびていた。
敵軽空母一隻撃沈、輸送艦隊壊滅――戦果としてはまあまあ。むしろ失った航空機が出撃機数の六割以上。特に船霊祥鳳撃破前に出撃した部隊はほぼ壊滅している。普通に考えれば損害が大幅に上回る悪い結果だ。けれど、今まで負けに負け続けた私達が掴んだ、初めての勝利には違いない。艦隊の全員がこの勝利に興奮していた。今夜は長くなりそうに思う。
しかし、まだ完全に勝利した訳ではない。あくまで、上陸部隊を阻止しただけだ。彼らには、まだ反撃の剣が残されたまま。そして、その剣の切っ先は、今まさに私達を捉えようとしていた……
「レディ・レックス!お帰りなさいませ!!」
空母レキシントンの格納庫。そこに充満するむせかえるような油と汗の匂いに相応しくない、まだ少女の域を脱しないトーンの高い声が、格納庫に据え付けられたラックに5インチ連装砲を降ろしたばかりの私に向けられる。振り返らなくともその声の主は判るが、そうするとそれはそれで厄介な相手だ。武装を解きながら私はその声に向き直った。
そこにいるのは、私よりも背が低い、いや、この空母レキシントン艦内で最も小柄な背丈と、彼女が動くたびにぴこぴこと揺れるブラウンのお下げ髪が、元気だけが取り柄な子犬のような印象を与える少女兵。彼女のためにあつらえられた純白の軍服の袖がそれでもまだ長く感じられることが、彼女をことさら幼く見せている。自由の国、民主主義の国アメリカ合衆国では女性が兵役に就くことは別に特別なことではないが、その姿を従軍看護婦など以外で、最前線の、しかも軍艦で見ることは珍しい。理由?そんなものは今更言うまでもないこと。一つだけ挙げるなら限られた空間しかない艦内に同一機能を有する複数の設備を設置することなど、不効率極まりないことだ。最も、スピリットが存在する艦艇では士官用設備の一部がその用途に宛われ、男性士官諸氏に不便を強いることで対応しているが、それが故に大型艦以外ではスピリットは装備できないとも言える。ただし、これは大英帝国でも同様らしい。大日本帝国はどうやっているのか、興味あるところであるが。
「……フローリアン……」
「……はい?なんでしょうか?レディ・レックス?」
私は彼女の名を呼んだ。フローリアン・リリエンタール。それが彼女の名前だ。正規の軍人ではないため階級はないが、私の身の回りの世話をする者として軍服に身を包み、一般の士官にとっての従兵と同格扱いの待遇を受けている。だから先程『少女兵』と表現したことは、実は正しくもあり、間違っているとも言えた。
彼女がこの艦に存在する理由は簡単だ。スピリットそのものがまだ数が少なく、また外の技術によって生み出された存在であるが故に、突発的な非常事態が発生しないとも限らないと判断されているためだ。そのため、彼女のような人間が『ラビ』と呼ばれる者、我が合衆国にスピリットの技術を持ち込んだ亡命ユダヤ人に選ばれて、スピリット各人の補佐に当たっていた――要するに、私が暴走したときの、いやそれを未然に防ぐためのリミッターという訳だ。スピリットの精神的なガス抜き役も仰せつかっているのだろう。私はフローリアンが怒ったところを見たことがないし、私が命じたことに逆らった姿を見たこともない。むしろ神ならぬ人の手によって造られた存在である私よりも、より機械的な印象を受けることすらある。それでも疎ましく思うことがないのは、当初より私との相性を考慮された人選がなされているためだろう。
フローリアンは私が次の言葉を発するのを、それこそ待てと命じられた犬のようにじっと――いや、もし尻尾があったなら全力でぱたぱたと振っているだろう――待っている。私はやや呆れて一言言いたかったはずなのに、ついフローリアンの頭に手を乗せて、何度か優しく撫でる。
「……後で私の部屋に紅茶を持ってきて。今日のこと、話してあげますからね」
「はい!」
満面の笑顔。毒気が抜かれるとはこういう状態を指すのだろう。それとも、これが私にフローリアンを宛われた理由なのかも知れない――そう思いながら、私は一足先に自室に足を向ける。しかし、当然ながら途中で兵どころか士官、更には艦長にまで労われ、部屋に戻れたのは相当後のこととなった……
*
防火のために壁紙すらない殺風景な部屋に甘い紅茶の香りが漂う。結局私がお茶の用意をしてやって来たフローリアンよりも遅く部屋に戻ったため、本題にはいるのは相当遅れたものの、彼女は文句一つ言うことはなく心底嬉しそうな顔で冷めたお湯を取り替え甲斐甲斐しく動き回ってくれた。
「レディ・レックス、敵艦撃沈おめでとうございます。
……ところで、敵ってどんな姿をしているんですか?やっぱり、レディ・レックスのように人間の姿をしているんですか?それとも……」
一息入れた私にフローリアンは言う。さすがに今日の戦いの大筋は彼女の耳にも入っている。けれど、それでも彼女は私の口から話を聞きたがった。
「……見た目は変わらないですわよ。私が知らない人からただの人間に見えるように、大日本帝国の船霊も、そうと知らなければ普通の人間にしか見えない……ハルゼー提督が、ワシントンで赤城をそうと見抜けなかったように、ね……」
そう。私やサラトガ、それに赤城や加賀達の運命を変えたワシントン軍縮会議の最中、大日本帝国はまだ船霊としての存在を知られていなかった赤城を高官の息女と称してアメリカ合衆国に入国させているが、当時それに気付いた者は誰一人としていなかった。かつて大日本帝国から叙勲されたこともあるハルゼー提督もその一人。しかも提督に至っては大人の話し合いに退屈した、少女の姿の赤城を連れて食事をしたほど。提督が馴染みのステーキハウスで提督お薦めのフィレステーキとレモネードを前にナイフとフォークで格闘するその姿は、どう見ても人間以外の存在には見えなかった……そうだ。逆に、その様子がアンフェアを嫌う提督の心情を十年以上の時を経て害することになろうとは、赤城も、ハルゼー提督自身も知る由もなかったのだが……
「……レディ・レックス?どうかなさいました?」
「……あ……」
フローリアンが私の顔を覗き込んでいた。どうやらカップにたゆたう紅茶を前に考え事に没頭していたらしい。
「……わたし、何か聞いてはいけないことでも聞いてしまったのでしょうか?」
フローリアンが困惑を露わにする。私は彼女の考えを微笑みで否定した。
「いいえ。そんなことはありませんわよ。……ところで、どこまで話しました?」
「えーと……解らなくなってしまいました……」
フローリアンはそう言ってばつが悪そうに笑う。凍てついた
『着艦する機体あり!各員緊急配置!繰り返す……』
私が帰投したのが薄暮だから、もうとっくの昔に陽は落ちている。夜間の発着艦はよほどのベテランでも失敗する可能性がある至難の業だ。それでも、ここまで何とか帰ってきて海の中に落ちるのは無念の極みだろうし、見る方も同じだ。
私はいてもいられず飛行甲板に上がった。フローリアンも離れず付いて来ている。陽の落ちた珊瑚海は漆黒の闇に染まり、その中をメジャー11と呼ばれる暗青紫色系の単色迷彩塗装を施した空母レキシントンが直進しながら燈火状態で着艦する機体を待ちかまえている。私が上がったときには既に機体は脚を出した状態で第三旋回を終え、第四旋回に入っていた。間もなく着艦――着艦誘導士官がパドルを握りしめ、作業員が万が一の事態に備える。
だが、このとき、誰も気付かなかったことがあった。それは――
「……馬鹿!速度を絞りすぎだ!海に突っ込む、いや、艦尾に突っ込むぞ!」
着艦誘導士官が両手のパドルを振る。『着艦不可。エンジン出力を上げて上昇しろ』の合図。タッチダウンではなく、タッチアンドゴーを指示したのは、そのままでは艦尾に激突すると判断したから。これは正しい判断だ。それが、アメリカ海軍の機体であるならば……
着艦誘導士官の指示に従い、機体はエンジンを吹かして速度を上げる。しかし、様子がおかしい。それにようやく全員が気付いた。アメリカ海軍機、いや、この空母レキシントン搭載機は、すべて引き込み脚の機体しかない。しかし、着艦しようとしていたのはスパッツを履いた固定脚。アメリカ海軍機ではない。もっと早く気付くべきだった。アメリカ海軍機は、『これほどまで長く空にいられない』のだ!
飛行甲板上を機体が飛び去る。翼に描かれたのは、アメリカ海軍機を示す白い星印ではない。赤い丸……大日本帝国の所属を示す識別マーク。
「強行偵察とは、なかなか見上げた度胸ですわね!!」
風圧に髪を巻き上げられることすら厭わず、振り返りざまに胸ポケットから取り出したワイルドキャットのカードを投げ、ファミリアを呼び出す。それと同時に防空機銃陣も攻撃を開始するが、どちらも統制どころか照準すらまともにつけない抜き撃ちだ。当たるはずもなかった。
敵機が飛び去っても、しばらく混乱は収まらなかった。
「……これで、こちらの位置は知られましたわね……」
まだ風の収まらない飛行甲板の上で、私は思わず呟いた。してやられた、と言うべきか。いや、敵機を友軍機と完全に誤認して着艦させようとしたのはこちらだ。間抜けとしか言うべき言葉がない。しかし、敵機の様子もおかしなところがあった。もしかすると、相手もこちらを友軍空母と思っていたのかも知れない。翔鶴級は大型で、それでいて格納庫は赤城や加賀と違い階層が少なく、むしろ中型空母の飛龍にシルエットが近い。これらを鑑みれば、夜間の遠目に空母レキシントンが翔鶴級空母に見えたとしても不思議ではない。まったく、間の抜けた話だ。
だが、結局日が昇るまで大日本帝国の攻撃はなかった。連絡齟齬が生じたのか、それとも別の理由があったのか――それは解らない。しかし、パール・ハーバーであれだけの損害を生じさせ、またインド洋では大英帝国東洋艦隊をほぼ壊滅に追いやった技量を持つ敵が迎撃しにくい夜間攻撃をしてこなかったことは、ある意味、僥倖だった。昼間であれば、まだこちらに勝つ見込みはある。歯痒いが、この点だけは認めなければ始まらない。
今度こそ……それは私だけではなく、この戦いに参加する全ての者が抱いた感情だった。
*
夜明け。それが戦いの幕開け。私の半身、空母レキシントンの飛行甲板を蹴って、F4Fワイルドキャット艦上戦闘機を先頭に攻撃隊が発艦する。行く先は言うまでもない。我が方の索敵機が血眼になって探し当てた真の敵主力艦隊、翔鶴級大型空母二隻を中核とする艦隊に向けて、全力攻撃を仕掛けるのだ。
一方、私も既に戦闘準備を終えていた。真新しい純白の戦闘服に身を包み、自慢のブロンドの髪を戦闘の邪魔にならぬように丁寧にまとめ上げた姿。右腕を包み込む合衆国の技術の粋を集めた5インチ連装砲が、朝日を浴びて鈍く輝いている。左の腰に取り付けたカードホルスターには、大日本帝国の『式』に対抗するためのファミリア達がカードに封じられたままその出番を待っていた。その中には艦上戦闘機の名前をもらったワイルドキャット、艦上爆撃機の名前をもらったドーントレス、艦上雷撃機の名前をもらったデバステイターの他に、私を赤城と互角に戦わせてくれた、まだ名前のないファミリアも含まれている。ドーントレスの後継として開発された、まだ正式名称のない機体が元になっているから、名前がなくて当然――なのだが、この子のおかげで私がこうして再戦の時を待てるのだ。連れて行かない理由はない。
「……敵は、翔鶴と瑞鶴……赤城達には及びませんが、不足と言うほどではありませんわね。
ヨークタウン、準備はできまして?」
自分の装備を確認し終えた私は、僚艦のヨークタウンを呼ぶ。その返事は簡潔で、未だ見ぬ敵への闘争心に満ちていた。敵、翔鶴と瑞鶴の姉妹は、我がアメリカ合衆国太平洋艦隊主力を壊滅させた真珠湾攻撃の総指揮官を務めた赤城、支那事変で活躍した加賀、大英帝国東洋艦隊を壊滅に追いやった蒼龍、飛龍ほどの戦果を挙げてはいないが、その潜在能力の高さはその有能な先輩達を遙かに凌ぐ。叩き潰せるものであれば、ここで叩いておきたい敵。しかし、そう簡単に事が運ぶ相手ではないことも、紛れもない事実だった。
「……レディ・レックス……」
後ろから声がかかる。振り向かなくても、それが誰のものかは判った。振り返ると、そこにはやはり彼女がどことなく沈んだ様子で立っていた。お下げ髪までいつもの跳ね上がるような勢いがなく、力無く垂れ下がっているかのように見える。
「どうしました?フローリアン?」
私の問いかけに、フローリアンは言葉を詰まらせた。言いたいことがたくさんあるけれど、たくさんありすぎて言えない――そんな様子に見て取れる。けれど、彼女が私に言いたいことは、十分すぎるほど伝わっていた。
「……帰ってきたら、美味しいお茶が欲しいですわね。準備して待っていてくれる?」
その一言で、フローリアンの表情が輝いた。けれど、これは彼女にだけ言った言葉ではない。私自身に言い聞かせる言葉。絶対に帰ってくる。何しろまだ戦いは始まったばかりで、反撃はこれからなのだから。
『……ヨークタウン、行きますわよ。最優先攻撃目標は翔鶴、瑞鶴の二隻。何を置いてもこの二隻だけは叩き、大日本帝国に我が合衆国の真の力を見せつけます!!』
東に昇る太陽を受けて、私は僚艦ヨークタウンに改めて攻撃目標を宣言する。
『アイ・サー。いつまでもやられっぱなしじゃないことを、教えてあげましょう!!』
ヨークタウンの返事を受けて、私はホルスターからワイルドキャットのカードを取り出し、ファミリアを呼び出す。ファミリアは決して攻撃のためだけの手段ではない。無駄な作戦稼働時間の減少を防ぐため、また、迅速な作戦域の移動手段にも使う。呼び出されたワイルドキャット、それはその名を表すかのような深い藍色の毛並みを持つ流麗な山猫が真っ白い大鷲の翼を背にした姿を見せる。その背にまたがり、続くヨークタウンと共に先発した攻撃隊の後を追う。何が何でもこの戦いに勝利しなければならない。その想いだけが、今の私の胸を支配していた。
私が去った甲板に残されたフローリアンは、ただ佇んでいた。それに気付いた甲板作業員が艦内に入るよう声をかけようとして……怯えたような表情で後退った。何故なら、その表情は決して明るいものではなく、むしろ何故か氷のように凍てつき、その視線も私達が去った方角の空を射抜くかのように見据え、瞳もまた冷たい輝きを放っていたからだ。しかし、私は、それが意味するところを、当然、知る由もなかった。
『レディ・レックス、敵は、もう動いていますかね?』
程なくして先発の攻撃隊に追いついた私達。その時、ヨークタウンがふと漏らした言葉が、事態の急変を予感させる。
『……動いているでしょうね。なにしろ、相手は私達よりも経験を積んでいますわ。技術面での優位性は、時として経験に覆されます。けれど、戦う前から臆しては始まりませんわよ?』
このときの私は、ヨークタウンの、いや何より自分の内に湧き起こる言い知れぬ気持ちを封じる為に、そう言ったつもりだった。予感していた訳ではない。しかし、敵は私達の予想通りに動くものではない。そして、それはこの戦いとても、例外ではなかった。
上空に先に光るものを見つけたのは、私だった。ヨークタウンも続いて気付く。天空より降り注ぐそれは、燐光を放つ鳥に似た物体――大日本帝国の船霊が使う式!
「ワイルドキャット!デストロイ・ゼム・オール!」
ホルスターより取り出したワイルドキャットのカード。私はその名を呼び、ファミリアはそれに応える。純白の翼を持つしなやかな濃紺の毛並みの山猫が、飛びかかる鳥の姿をした式に猛然と襲いかかり、共にその姿を消す。勝てはしなかったが、相殺できただけでも上等。上空から襲いかかってきたことから九九式だろうが、もしも今のが大英帝国から報告を受けた、蒼龍の操る『エグサ』と呼ばれる九九式であったなら……今の一撃で勝負はついていた可能性もあった。そうとも。今いる敵は、まだ未熟。ツキはまだこちらにある――そう自分に言い聞かせつつ、私達は上空に視線を向ける。そこには深紅の日の丸をつけた航空機が多数、私達の半身に向けて悠然と進んでいた。大日本帝国海軍主力艦隊が差し向けた攻撃隊――しかし、私達にそれを防ぐ手立てはない。何故なら……ここに彼女達がいるからだ。
「……へぇ。ボクの九九式を防ぐなんて。さすが、赤城さんをあそこまで追いつめただけはあるね。貴女をここで沈めたら、ボクも赤城さん達にようやく追いつくことができるかな?レディ・レックス」
肩に届く程度で丁寧に切り揃えられた髪を揺らせて、彼女は笑う。しかし、その漆黒の瞳は冷たく燃え上がり、決して笑ってはいない。
「残念ですけど、私達、ここから先に貴女達を行かせることはできませんの。おとなしくお帰り願えませんでしょうか?そうすれば……ここで冷たい骸になることはありませんから」
もう一人とは対照的に伸ばした黒髪を、東洋の女性祭司、巫女のようにうなじの位置でまとめた彼女は、冷たく、そう言い放った。
髪と口調以外では見分けが付かない二人組……瑞鶴、そして、翔鶴。現在の大日本帝国海軍の空母最強の二隻、その船霊が私達の前に現れる。その空母としての能力は、未だ竣工しない我がアメリカ合衆国海軍の新鋭正規空母エセックス級に匹敵する。それだけで彼女達の能力の恐ろしさは十分理解できるというもの。そして、彼女達に足りないものは、ただ、経験だけ。その彼女達は、今、その純白の翼を大きく広げて私達をその贄に選び、成長しようとしている。そう。アメリカ合衆国の、さらなる脅威へと……
私は唇を噛み締める。ここで、この珊瑚海で、この二人を食い止めないことには、我がアメリカ合衆国に勝利はない。ないが……それでも、若いこの二人よりも、私達は、実戦経験という点で更に劣っている。だが、それでも、臆することはできない。私は震える心を叱咤し、喉の奥に凍え固まる声を無理矢理引きずり出す。臆病者に勝機は訪れないと、私は知っているから。
「……誰に、お引き取り願う、と言うの?」
それは深く、重みを込めた声。恐怖を押し込め、握り潰し、そして、勝機を呼び込む為。私は冷たく笑う翔鶴と瑞鶴を真っ向から睨み付ける。臆することはない。彼女達とて、造られた者。そう。私達と同じ。彼我の戦力差は、経験だけで測ることはできないのだ。
「私の名はレキシントン。親愛なる大統領の、いいえ、アメリカ合衆国の国民の為、勝利することを義務づけられた者。その私に、尻尾を巻いて帰れ、と?いい度胸ね。褒めて差し上げるわ」
言いつつ、私は右腕の5インチ連装砲のロックを外す。鈍い音を立てて弾倉から装薬と一緒にカートリッジを形成する弾頭が装填される。それに連なるようにヨークタウンも迷いを振り切ったような面持ちで装備した5インチ単装砲に装填する。翔鶴、瑞鶴は私達の様子を見て嬉しそうに顔を綻ばせ――それが、開戦の合図となった。
「舞え!九九式!!」
「疾く!九七式!!」
翔鶴の放つ九九式と瑞鶴の放つ九七式――天空を翔る
「ワイルドキャット!デストロイ・ゼム・オール!」
私の声に応じ、黄金の縁取りがなされた濃紺のカードが翼を広げた山猫へとその姿を変える。ワイルドキャットは空を震わせる咆哮と共に猛然と九九式と九七式に襲いかかるが、その翼を食いちぎった時点でそのまま力を使い果たして燃え尽き消える。そう。我が軍のファミリアは決して大日本帝国の式に劣る訳ではない。勝ってもいないのが口惜しいが、それが現実である以上今はどうしようもない。それでも、そのままの状況に甘んじることなく前進すること――そのためには、今を生き残らなければ始まらない。
「いい気にならないでね。私を倒す?笑わせないで欲しいわ。貴女達こそ、ここから生きて還ることができるなんて、甘い考えを捨てることね」
私の言葉は、翔鶴と瑞鶴の表情から余裕の笑みを消し去る。いや、それだけでは済まさない。これからその表情を絶望に変えてやる。私はホルスターからドーントレスのカードを四枚取り出し、扇のように広げてみせる。本来ならば必要はないが、翔鶴達への威嚇と示威行為だ。
「ゴー!ドーントレス!」
複数のファミリアを操れるのは、何も大日本帝国海軍の専売特許ではない。私でも、やればできる。ただし、今まで訓練でもやったことのない四枚同時制御は、私の精神力を一気に削り落としていた。一瞬でも気を抜けば、全てが水泡に帰す。それだけは避けなければならない。そして、この一撃で決めたい私の意思は、どうやら繋がったようだ。
私の攻撃に対して零式による迎撃が間に合わないと悟った翔鶴と瑞鶴は退避行動と25ミリ機関砲による撃墜を試みる。当然だろう。その行動は瑞鶴においては功を奏し、直撃は避けられた。ただ、無傷という訳にはいかない。腰にぶら下げた式の束と弾薬をベルトごと持っていかせてもらった。しかし、それだけで脚まで持って行かせないのはその鍛え抜いた体術故か。本来ならこれで撃沈できれば言うことはないが、こちらもそこまでは望んでいない。これで瑞鶴の攻撃能力が激減したことに違いはないのだ。だが、翔鶴は瑞鶴ほど幸運には恵まれていなかったようだ……
翔鶴に迫るドーントレス。それは恐れを知らぬ勇気を具現化したかのような、蒼い炎に包まれたカイツブリの姿を得る。現実の艦上爆撃機ダグラスSBDドーントレスを駆る若者達がそうであるように、ファミリアも激しい弾幕を恐れることはない。瑞鶴に迫ったドーントレスは彼女の的確な25ミリ機関砲の弾幕に倒れ、また傷つきながらもその任を全うした。翔鶴に迫る二枚のドーントレスも瑞鶴の場合と同じ運命を辿るかと思われたが……そこに翔鶴にとっての不運、そして私にとっての幸運が舞い降りた。
翔鶴の手にした25ミリ機関砲から間断なく放たれ続けた光の帯が、鈍い音とともに突如として途切れる。一瞬自分の身に降りかかったことを理解できない翔鶴。そして、それを理解したときには、既に遅過ぎた。
「噛んだ!?」
連発に耐え切れなくなった砲内部に砲弾が詰まったのだ。腔発しなかっただけ奇跡といえるが、その結果は翔鶴にとって無惨だった。
右足を捉えたファミリアが容赦なく翔鶴のその部位を食いちぎる。ただズボンの布生地に覆われただけで装甲も何もない右足を食いちぎり、機能不全に追いやったドーントレスは任務を果たしまるで満足の笑みを浮かべたかのようにゆっくりと消え去る。海原に響く翔鶴の悲鳴。それは私に勝利への一歩を伝える確かな感触だ。
「翔鶴!」
瑞鶴が姉の名を呼ぶ。翔鶴の右足からまるで人間のようにしたたり落ちていた鮮血が止まる頃、翔鶴は痛みを堪えるかのように口を開いた。
「……ま、まだですの。まだ右足を失っただけ。私はまだ戦えますわ……」
式と弾薬を失った瑞鶴と、体の一部を喪失するダメージを負った翔鶴。それでもその姿はまだ闘志を失っていなかった。
「さすが、大日本帝国海軍を背負って立つ二人ね。褒めてあげますわ。けれど、ここで……」
私の言葉を遮り、瑞鶴がまさしく咆哮した。
「ここで負ける訳にはいかないのは、こっちも同じなんだよ!」
瑞鶴の気合いに空気が震えた。そして私は瑞鶴の手に見慣れない札があるのに、その時やっと気付いた。束ごと叩き落としたはずだが、次で使うつもりだったらしくその手の中にあった赤い帯を巻かれた純白の札。どうやら零式のようだが、何かが違う。直感的に私はそれを感じ取っていた。
「……翔鶴、ボクが先陣を切る。とどめは任せるから!」
言うが早いか。瑞鶴が手にした式を放たず全速で迫る。それを25ミリ機関砲で弾幕を張って援護するのは、翔鶴。しかし、ここで戦っているのは私とこの二人だけではない。
瑞鶴と私の間に割って入る5インチ砲弾。ヨークタウンが放ったものだ。しかし、瑞鶴には当たらない。それは瑞鶴と戦った兵士が悉く口にするように、弾が避けているかのよう。私を狙っていた瑞鶴の目線が、その時変わった。
「……ボクの邪魔をするなぁっ!」
一瞬私は瑞鶴の姿を見失った。次に目にしたのはヨークタウンと鼻突き合わせるほどに接近したときだった。
怒りの表情を露わにした瑞鶴。近過ぎて5インチ砲では迎撃できないヨークタウンはファミリアで迎撃しようとしたが、それすらも遅過ぎた。
零距離での25ミリ機関砲全弾発射。加えて弾薬の尽きた25ミリ機関砲の銃床で殴りつけた挙げ句殴る蹴るの猛攻。私の攻撃でほとんど弾数は残っていなかったとは言え、ヨークタウンを撃破するにはそれは十分。いや、私の攻撃がなければ、その時点で彼女の命運は尽きていたはずだ。
「……か……は……」
「ヨークタウン!下がりなさい!」
満身創痍で撤退するヨークタウンを、瑞鶴も翔鶴も追わなかった。いや、追えなかったのだろう。瑞鶴は既に弾薬の尽きた25ミリ機関砲を放棄しているし、翔鶴も損害が大きく瑞鶴の援護がやっと。ただそれを感じさせない二人は這々の体で逃げ帰るヨークタウンには目もくれず、再び私と向き合う。まるで、邪魔者を追い払ったかのように。
「……さすが、大国アメリカ侮るべからず、ってところだね。でも、これで終わりにさせてもらうよ!」
瑞鶴が手にした札を高々と掲げる。ただの零式ではない。それを感じ取っていた私はファミリアでの迎撃を試みるが、一歩遅かった。
「叩き落とせ!虎徹!!」
一瞬札を炎が包み、胴体に桜の模様が吹雪のように散りばめられた白銀の大鷲がその姿を現した。それは蒼龍が手にすると言う『エグサ』のごときスペシャルカードか。主の呼びかけに応えたそれは私が呼び出したドーントレスやワイルドキャットを次々と叩き落とし、私の目前に迫る。しかし、その行動そのものが罠だったとは、私は気付かなかった。
「戻れ!!虎徹!!」
「……!?」
私はその言葉の意味を一瞬測りかねた。それは私にとって重要なことを意味していたのに。その油断と、瑞鶴の声が消える直後、翔鶴の声が響き渡った。
「……舞え!九九式!!」
瑞鶴は切り札を露払いと陽動に使ったのだ。すべては、この一撃を私に命中させるために。そう。翔鶴の九九式を確実に命中させるべく、瑞鶴は持てる全ての力を使ったのだ。
翔鶴の九九式は全部で三体。外れたものはなかった。5インチ砲は右腕ごと叩き潰され、一体は私の右胴体を貫いた。最後の一体はかろうじて頬を掠める程度で抑えたが、形勢は一気に逆転した。
「……右足の、借りは……これで返したからね……」
息の上がる翔鶴。彼女もこれ以上の攻撃は無理だろう。切り札をも使い果たした瑞鶴にも追撃の手段はなく、私は撤退に転じた。予想通り、彼女達は追っては来なかった……
*
私が空母レキシントンに帰投したとき、既に薄暮を迎えていた。ヨークタウンも何とか帰投できたらしいが、空母本体の損害も様々だった。船霊対スピリットの戦いも凄惨を極めたが、空母対空母の戦いも相当のものだったらしい。空母レキシントンは元が戦艦という防御力を生かし阻害はそれほどでもなかったが、問題は空母ヨークタウン。大破に近い状態で、改めて大日本帝国海軍航空隊の攻撃力と伎倆を思い知らされる。まぁ、状況については人のことは言えない。
「……お帰りなさいませーー!!」
フローリアンが飼い主を見つけた迷子の子犬のように抱きついてくる。よほど怖い思いをしたのだろう。尻尾のように揺れるブラウンの髪は今や怯える子犬そのものだ。
「ただいま。フローリアン。少々用がありますから、後でね」
私の体を慮りまとわりつくフローリアンをゆっくりと剥がし、私は艦橋に向かった。ずたずたになった私の体は乗員には奇異に映ったことだろうが、今はそんなことを気にしている余裕はない。
「艦長!」
硝煙と消化剤の臭いの充満する艦橋で、純白の制服を水と油で濡らした壮年の艦長が私の声に反応する。艦が見た目以上にやられているのは自分の半身だけあり解る。艦長のその姿は襲い来る大日本帝国海軍攻撃隊の猛攻に負けることのないファイティングスピリッツを見せつけた結果だということも。
「おお。戻ったか。そっちも随分とやられたな。だが、安心しろ。お前の半身はこの通り無事だ」
艦長はわざとらしく大笑いしてみせる。そんな余裕がないことは解っているが、士気を鼓舞するためと、必要以上に負け戦に近い損害を笑い飛ばしたい気持ちがあるのだろう。
「敵主力部隊を攻撃に向かう途中、敵船霊『翔鶴』『瑞鶴』に待ち伏せされました。戦果は翔鶴の右足と瑞鶴の武装一式。損害はヨークタウン大破と私、レキシントン中破。以上」
艦長は私の戦果報告をただ感情もなく聞いていた。そして、ゆっくりと口を開く。
「こちらも、似たようなものだな。翔鶴型空母一隻を中破させたが、もう一隻は発見すらできなかった。代わりに空母ヨークタウン大破。そして、空母レキシントンは何とか消火には成功したが魚雷3発と急降下爆撃2発。両空母は着艦不能に陥り、あの通りだ」
艦長はそう言って外を指差す。そこには燃料切れで着水しようとしてひっくり返るF4Fワイルドキャット艦上戦闘機の姿があった。あの状態ではパイロットは助からないだろう。
「……着艦させてやりたいのは山々だが、こっちは飛行甲板の応急修理こそ終わったが航空機用ガソリンタンクの修理がまだだ。急がせてはいるのだがな……気化したガソリンが艦内に充満してスパークが発生しそうな一切が使えん」
艦長はそう言って、苦々しそうに外を見る。また一機、着水に失敗してその命を散らす。大日本帝国に一矢報いた殊勲機達が、祝福を受ける間もなく散っていく様は、無惨としか言いようがない。空母レキシントンですらこうなのだから、空母ヨークタウンではどう見ているのか、考えるまでもなかった。
ただ、損害が逆ならどうだっただろうか、とも思った。密閉型格納庫を持つ空母レキシントンだからガソリンタンクの損傷という理由で可燃物が充満してしまうため着艦不能に陥るが、開放型格納庫を持つ空母ヨークタウンではそれは重要なことではあるがまだ早期復旧が可能な事項だ。つくづく不運を呪う。いや、撃沈されなかっただけマシだと考えるべきか。
電気系は万が一があるため使えず、伝声管で艦長が修理状況を確認する。そのとき、事態は急変した。
空母レキシントンの艦中央から突如として火柱が上がった。それは次々と可燃物を巻き込み、誘爆していく。
「……どうした!?何が起こった!?」
伝声管に答えはない。ただ、空母レキシントンの機能が次々と失われていく。それだけは事実だった。
「く……あああああっ!!」
スピリット、レキシントンが身を引き裂かれる痛みに叫びを上げる。火柱は飛行甲板を突き破り、そればかりか数少ない開口部のエレベータ部分からも吹き上げ始めていた。
「状況報告!!」
艦長の声に伝声管の向こうからようやく返答があった。
「艦内火災発生。搭載魚雷・弾薬に誘爆発生。消火できません!」
「……なんと言うことだ……」
艦長は天を仰いだ。だが、機会は誤らなかった。即座に総員退艦を告げる。
『総員飛行甲板ー!』
通常の艦であれば最上甲板と言うところだが、空母の最上甲板は飛行甲板だ。艦内に響き渡る号令に、この艦内にこれほどの人間がいたのかと思うほどの人間の山が次々と甲板から降ろされるカッターに乗って艦を離れてゆく。乗り切れない者はそのまま海に飛び込んだ。その艦も爆発は終わる気配なく続いていた。
その爆発の中、フローリアンはそのブラウンのお下げ髪を揺らしながら、主であるスピリット、レキシントンを探していた。艦橋に行ったまま帰ってこないことは解っていたが、今やその周辺は火の海だ。
「レディ・レックスーどこですかー!」
呼べどもそれは喧噪の中にかき消される。そうやってさまよっているうちに、彼女は不意に自分の体が地面から離れたのを感じた。力強い腕に抱えられる感触。彼女が何かを言う前に、その腕の主は叫んだ。
「馬鹿野郎!こんなところを
フローリアンが見上げると、そこには灰にまみれた青年士官の顔があった。服が水に濡れている感触に今更ながら気付く。それでもフローリアンはその腕から逃れようともがいた。
「馬鹿!どこへ行く気だ?」
「レディ・レックスが、レディ・レックスがまだ帰ってこないんです。艦橋に向かったまま……」
「……艦橋はもう火の海の中だ。艦長も総員退艦を告げた後行方が知れない。多分、艦と運命を共にするつもりだろう」
「そんな……」
フローリアンが絶望にうちひしがれる中、遠くから誰かが『後二人!後二人いけるぞ!!』と叫んだ。フローリアンを抱えたままの青年士官がそれに応じる。最後のカッターに乗り込んだ青年士官とフローリアンは、離れつつあるカッターから燃え盛り沈み行く空母レキシントンを見た。至る所から炎を吹き出し、かつてのスマートな艦影はもはや微塵も残っていない。その様子に、フローリアンはいてもたってもいられなくなり海に飛び込もうとしたが、その細い腕をさっきの青年士官に掴まれた。
「馬鹿野郎!死ぬ気か!?」
「わたしは……レディ・レックスのもう一つの半身です!わたしが付いていないといけないんです。その命に逆らうことはできません!」
「こら、止めろ!暴れるな!」
狭いカッターで暴れられたら転覆する。それだけではないが、青年士官のフローリアンの腕を掴む力がこもる。だが、それが不意に軽くなって抜けた。
「え?」
青年士官だけではない。そのカッターに乗り込んだ全員が同じ声を上げた。今まで少女の姿をしていたものが耳の長い茶色い毛並みの子犬に姿を変え、海を泳ぎだしたからだ。
フローリアンは迷わなかった。そのまま、前足をかいて波立つ海を進む。燃え盛る空母目指して。その姿を、青年士官が呆然とした表情のまま、ずっと見つめていた……
end