Phase-3 "道違え"
*
「…ガ…ン…ダ…ム…?」
血と汗と油と……それにむせ返るような大人の女性の匂いに満たされた閉鎖空間。そこで見た赤い文字列――それは、今まで僕がいた世界とは、全く隔絶された世界の入り口に書かれていた標識に思えた。
戦争は、テレビの向こう側の世界だと思っていた。カオシュン宇宙港が陥落した、と聞いても、
「……君!名前は!?」
突然の問いかけは、僕を混乱させるのに十分だった。名前――一瞬何のことだか判らなくなる。けれど、次の瞬間に意味を咀嚼した。今の言葉は、目の前のシートに座っている、プラチナブロンドの髪の女性が発した言葉だと。考えてみれば、奇妙な感じだ。僕はカレッジの学生で、シートの反対側にいる軽いウェーブのかかったブラウンの髪の女性と、シートに座ってこの『地球軍の新型機動兵器(さっき出会って、シェルターに避難させた女の子の言葉そのままだけど)』――ザフトのジンのようなモビルスーツ――を動かしている女性は、作業着姿。なのに、この人はまるで……
「……聞こえなかった?君?名前は?」
もう一度問われる。明らかに焦っているのが判る。僕の反対側にいる女性は、さっき撃たれた傷が痛むのか、徐々に呼吸が荒くなっていた。だから……焦っているのだろうか?
「キラ……キラ・ヤマトです。工業カレッジの、カトーゼミに通っている……」
「そう。ラミアス大尉。今から機体を起き上がらせて……状況によっては戦闘機動やりますから、しっかり掴まっていてくださいね。
それから、ヤマト君。無駄口は利かない方が身のためだから。舌を噛んでも責任持てないからね!」
シートの女性がそう言うと、コクピット内部の駆動音と振動が徐々に大きくなる。小さく『……ハイドロ……オッケー……テンパラチャー……オッケー……』とか呟いているのが聞こえる。機体のチェックをしているのだろうか?だけど……さっき、この人、なんて言った?
「……あの……戦闘機動って……言いませんでした?」
僕の問いかけにシートの女性は振り向きもせずに答える。
「そう。まず、まだ起動したばかりのX303を確保する。今ならまだ間に合うかも知れないから。荒事は好きじゃないけどね。場合によってはコクピットブロックを潰してでも……」
『機体だけでも取り戻す』……多分、この人はこう言いたいのだろう。そして、『X303』とは、さっき動き出したモビルスーツのことを指しているのだろう。けれど、あのモビルスーツを動かしているのは……さっき、僕たちを撃とうとして、顔を合わせたあのザフト兵は……見間違えるはずもない。あの顔、あの声は……
「……待ってください!あの……コクピットブロックを潰すって……」
その思いと必死の訴えを断ち切るように、駆動音と振動がいっそう大きくなる。振動が頂点に達したとき、体が軽く浮き上がるような感じがした。目の前のモニタに表示された外の風景――炎に包まれた格納庫――が徐々に天井から壁へと移っていく。今、このモビルスーツが立ち上がろうとしているのだ。
衝撃が、一度、二度。それから、更に体が浮き上がる感じがする。まるで、古いエレベータに乗っているような感じだ。けれど、ここはそんな落ち着いた場所ではない。
「……諦めちゃ駄目。考えるの。本当に他に手はないのか……本当に諦めるしかないのか……」
シートの女性の呟きが聞こえる。そのとき、僕は女性が首から下げている年代物らしい、瀟洒な懐中時計に手をやるのを見た。
「諦めないうちは……終わりじゃ……ない……!」
女性がペダルを踏み込み、スロットルを開く。細かい振動がある一点を境に一定になる。僕は女性の肩越しに前を見た。甘い香りが鼻腔をくすぐる。計器板の水平儀は0を指していた――つまり、このモビルスーツは完全に直立していることを示していた。
「システム・オール・グリーン!ラミアス大尉、出します!ヤマト君、しっかり掴まってなさい!」
シートの女性がそう告げるが早いか、コクピットブロック内部は先程までと違った振動に包まれる。景色が徐々に流れていき……僕は見慣れたはずの町並みを、見慣れない視点から見ることになった。
そう。このとき、この瞬間……僕の今までの生活は終わりを告げ、それまで考えもしなかった世界に足を踏み入れたことに気付いたのは、これからずいぶん後のことだった……