Phase-2 "凪の静寂(しじま)に娘達は踊る(中編)"

*

Dear Lacus,


How is the state of the sleeping princess?

I'm sorry with being left to you.

I'll be able to come back there the day after tomorrow, too.


Sincerely,

Maaya


「……え、ええっと……確か、このボタンを押して……」

私は、今まで生きてきた中で一番難しい局面に向かい合っていた。

手の中にあるのは、ピンク色の可愛らしい携帯電話。まだ真新しく、傷一つない。それもそのはず。これを買ったのは、昨日の夜のこと。

あのクリスマスイブの夜、パーティ会場のホテルで出会った、傷付いた女の子――まだ目を覚まさないあの女の子が目を覚ますまで、どちらかがついていようと話し合ったけれど、残念ながらMaayaさんは今日からマイウス市での慰問ライブのスケジュールが入っていた。私はニューイヤーパーティまでアプリリウス市から離れることがないので、スケジュールの合間を縫って病院へと足を向けていた。そのとき、聞き慣れたメロディに乗って、初めてのメールが届く。流れるメロディはIn The Quiet Night。自分の曲がこういうところでも使われているのは、軽い驚きだった……けれど……けれど……

「……ラクス様、やっぱり、僕が代わりに打ちましょうか?」

「……い、いえっ!わたくしがやります!」

見かねたのか、横から声がかかる。そこにいるのは、スーツに身を包んだ、銀髪の控えめな少年。名前をパルス・ソムニといい、デビュー時からの私の付き人で、あまり男性を感じさせない少年。彼は細い目を更に細め、心配そうに私を見ている。おそるおそるボタンを押す今の私は、傍目にはたいそう面白く見えていることだろう。今いる場所が病室で、私とパルス以外には、眠っている女の子しかいないのが救い。そんな中でパルスの言葉はありがたかったけれど、これだけは人任せにするわけにはいかなかった。


こんな、普通の女の子なら当たり前にできることも、できないなんて――


パルスの前なので溜息をつくことはしなかったけれど、一人だったなら間違いなく暗く沈んでいたことだろう。尤も、意識を周囲に向けても、病室の扉まで戻ったパルスと、私の座っている椅子の横、ベッドで眠っている女の子がいるだけで、溜息をついても他言するような人間はいないのだけれど。

ユーラシア系の移民が多い地域にある病院のため、『Erika Mustermann』と書かれたプレートは、勿論彼女を表してはいない。けれど、同時に今の彼女を表している。身元を表すものは一切なく、誰が、どうしてあの場所に運び込んだのかも不明。アプリリウス市警が捜査を開始しているものの、まだ端初すら掴めていないという。私のお父様の方面からも捜してもらってはいるものの、どこの誰なのか、まだ何も判ってはいない。

呼吸に合わせて、彼女の赤茶っぽい髪が額からこぼれ落ちる。時折、『シロー』と聞こえる単語がか弱く耳に届く。大切な人なのだろうか……ここで改めて気付く。世界は、切り取られたお芝居などではなく、長く綴られる物語であることに。私のように、『わたくし』を演じることから逃げ出せない臆病な人間には推し量ることもできないようなことを、彼女なりに精一杯綴ってきたに違いない。

ちゃんとお話ししたい、と思う……けれど、目が覚めることは、彼女は今の自分と真っ正面から向き合うことになる。自分だったら、と考えると、正直、怖い。あんな目にあっても、今の自分でいられるか、と問われたら……多分、返事はできないと思う。


このまま眠りの繭の中にいたいですか?それとも、繭を破って羽を広げたいですか?――


心の中で問いかける。返事があるはずもない……そう思った時、女の子の睫がゆっくりと動く。碧い瞳がよりどころなく動き、やがて、私と目があった。

「……ここは……?あたしは……」

女の子の言葉を受けて、私は一瞬言葉に詰まる。なんて言えばよいのだろう。

「……あたしは……。ははっ。消毒液の匂いのする天国って、あるんだね……」

「……天国では、ありませんわ。貴女は、ちゃんと生きてますから……」

私の言葉に、何か思うところがあったのかも知れない。女の子は突然目に涙を浮かべ、それはほどなく滂沱(ぼうだ)となる。私は彼女の体をしっかりと抱きしめる。それが、彼女がここで確かに生きている証であるかのように。


女の子が落ち着いたところで、私は今まで聞きたかったことを口にする。それはとても勇気が必要だけれど、大切なことでもあったから……

「……お名前を、教えて下さいませんか?私はラクス、ラクス・クラインです」

しばしの間。戸惑いと、混乱と、警戒と、それらがない交ぜになった表情が見て取れる。けれど、彼女は私に答えてくれた。

「……キキ。キキ・ロジータ……」

いつの間にかパルスの姿は病室から消えていた。気を遣ってくれたのだろう。お友達になるためには、まずお互いを名前を呼ぶこと――昔、どこかで聞いたことだけれど、それは真実だと、今感じていた。


その夜、私は初めてメールを送信した。送信先はMaayaさん。内容は、たった一言。書きたいことはたくさんあったけれど、それはまたの機会にする。何故なら、それが私達と、彼女、キキ・ロジータさんとの出逢いだったことを、彼女に伝えたかったから――


Today, She...Kiki awaked!――

Next Phase...