珊瑚海紅く染めて 〜Lexington〜 Scene.1『第一次珊瑚海海戦』

*

それは、予想すらしていなかった出来事。

彼女達が、そんなことをするはずがない……自分に何度言い聞かせたか、もう解らない。

けれど、今目の前に存在する現実が、私の考えを甘い夢想だと思い知らせる。

彼女達は敵になった。ただ、その事実だけが、私の前に突きつけられる。


燃え盛るパール・ハーバー。威容を誇った我らが大統領の太平洋艦隊、ホワイト・フリートは、今、無惨な姿をあちこちに晒している。あるものは深紅の腹を晒して横たわり、あるものはキールのみをこの世に残して無惨な姿を晒し、あるものは仲間の邪魔にならぬよう、そしていつか修理を受けてこの屈辱を晴らすべく、自ら水路を外れて座礁している。そこは地獄の釜の中。それは紛れもない、日本製の、地獄の釜だった。


私にとって初めての実戦は、いきなり最強の敵を相手にした、と言えた。

相手の名……それは大日本帝国海軍空母、『赤城』……その意志を具現化した存在。世界にも類を見ない空母の集中運用を実現した機動部隊の長。

日本帝国海軍の機動部隊の総合的な攻撃力は、空母単艦を中心にして少数の艦艇で部隊を構成する我が海軍の任務部隊タスク・フォースを遙かに凌駕する。そして、何よりも彼女達は私達と比べて決定的に実戦経験が豊富だ。これを覆すことは、我が合衆国の工業力を以てしても、容易なことではなかった。

それでも、ここで彼女を生かして帰すつもりはなかった。宣戦布告なく、安息日を狙った卑怯な騙し討ちを実行したものをそのまま帰してしまっては、何のために私が存在するのか。それだけは絶対にできなかった。


「……貴女達だけは、そんなことはしないと、思っておりましたわよ。赤城……」

パール・ハーバー空襲さる。これは演習に非ず――この報を聞いた私は艦を離れ、単身パール・ハーバーに乗り込んだ。そこで見た地獄。私は怒りに打ち震えながら、言う。合衆国の技術力の結晶、右腕を肩まで包み込むような巨大な8インチ連装砲には既に砲弾が装填し終わっている。私と対峙する、紺色の詰襟に身を包んだ赤毛の女……赤城は、私の怒りの原因を掴みかねているようだった。


一瞬の間。赤城は絞り出すようにして私の名を呼んだ。信じられないと言うような面持ちで。だが、今はその行動全てが忌々しかった。

私の返事は言葉ではなく、砲弾。さすがに赤城はそれを直撃させるほど愚かではない。易々と躱される。やや間合いを離した赤城は、更に問うた……いや、それは私にではない。自分自身の内側から湧き起こる疑念を晴らすために見えた。


「レキシントン、これだけは答えられるだろう?……まさか、宣戦布告は行われていなかったのか?」


愚かな、と思った。哄笑したくなるような、いや、最後のよすがを離すまいとするその姿を、私は嗤った。それで十分だった。

その時の彼女の姿……それはどこまでも堕ちゆく哀れな、惨めな敗者そのものに思えた。だが、彼女は全身でそれを否定する。彼女が指揮する部隊に攻撃中止命令を発し、彼女だけがその場に残る。目前の事態の、けじめをつけるために……


そこで、私の思考は中断される。


「レディ・レックス?何を考えていたんです?」

我に返る。そう。ここはあの燃え盛るパール・ハーバーではない。あの日以来、辛酸を舐め続けた我が合衆国が、ようやく反撃に転じる一大機会。合衆国が誇る最新鋭の演算機と情報将校が全力を超える力を発揮して探り当てた、大日本帝国の次なる攻撃目標、ポートモレスビーをなんとしてでも死守するべく、珊瑚海東方にて彼らを待ちかまえていたのだ。そう。ここは、パール・ハーバーでは、ない。

私を現実に引き戻したのは、同じ太平洋艦隊所属の空母、ヨークタウン……のスピリットと呼ばれる存在。勿論、私もその範疇に入る。大日本帝国では船霊ふなだま、大英帝国ではフィギュアと呼ばれる存在と同じもの。ただし、両国と違うのは、私達が純粋な合衆国製ではないと言うことだ。

元々、この分野で先行していたのは大日本帝国と大英帝国だ。それぞれ方法は違うが、結果として同じものを創り上げた。だが、当然この技術は極秘も極秘。同盟国とて簡単に供与してもらえるような代物ではない。しかし、今現実に私達は存在する。何故か。簡単なこと。誰かがアメリカ合衆国にその技術を持ち込んだからに決まっている。本来ならば三番目にこの手の精霊兵器を開発するはずだったドイツ第三帝国から、亡命ユダヤ人技術者の手によって、この秘法はアメリカのものとなった。おかげでヒトラーは使いようによってはこれ以上のものはない強力な兵器を手にする手段をほぼ失ったが、ヒトラーは海軍を信用していない。仮に存在したところで有効に使えたかは、不明のままだ。

「……特に。パール・ハーバーの戦いを、思い出していただけ……」

私の言葉にヨークタウンは沈黙した。破竹の勢いでアジアを、太平洋を攻め立てる大日本帝国と、いや、無敗の南雲機動部隊を相手にして生き残ったものはまだ少ない。私は、その数少ない生き残りだ。


あの戦いで、赤城は大日本帝国海軍の偵察機に回収されたらしいとの報告を受けた。史上初めてのスピリット対船霊の戦いは、痛み分けに終わったらしい。赤城の損害は不明だが、少なくとも、武装をそのまま回収することは不可能だったはずだ。航続力を稼ぐためには生存性すら犠牲にする大日本帝国の偵察機にそれほどの積載能力はない。情報部と海軍は赤城の部品、特に武装関連をそれこそパール・ハーバーを根こそぎ浚う勢いで捜したが、結局見つかったのは私の攻撃を躱すために私ごと蹴り飛ばした25ミリ機関砲だけ。それですら強い力で蹴り飛ばされた衝撃で修復は不可能、残された弾薬から肉薄されれば駆逐艦程度までなら無力化できるだろうと判った以外、性能は依然として闇に包まれたまま。また、海軍が是が非とも欲しがった赤城の主砲は、中国戦線での情報将校からの報告でおそらく8インチクラスの砲熕兵器だと推測されているが、どうやらハワイ沖の水深が深いところまで移動してから破棄したようだ。もしかすると、残存弾薬で爆破処分された可能性もある。結局、私達は彼女達の残した爪痕以外、殆ど何の情報も入手できなかったに等しい。逆に、私の被害は甚大。赤城の最後の一撃の直撃こそかろうじて免れたが、体の半分を持って行かれた。聞けば修復と戦訓に鑑みた改良工事にかかった費用で軽く重巡洋艦一隻建造できたそうだが、それでも、合衆国は私を見捨てなかった。


私が戦場に戻ったとき、私の半身、空母レキシントンもまた戦訓による改造を受けていた。マレー沖海戦で作戦行動中の大英帝国戦艦二隻を沈めた大日本帝国の強力な航空攻撃に備えるため、それまでの水上戦力重視から一変して対空戦能力が強化されていた。ただ、本来ならば砲戦力重視の8インチ砲塔から5インチ両用砲塔に換装されていたはずの場所には、急な出撃命令によって1.1インチ三連装対空機銃群が宛われている。私自身には新型5インチ連装砲が間に合ったが、艦には間に合わなかったらしい。


「……あのとき、南雲機動部隊を追撃できる位置にいたのは、レディ・レックスとエンタープライズだけでしたからね。ハルゼー提督が一隻たりともクレにもヨコスカにも帰さん!って、大変だったようですよ」

エンタープライズはヨークタウンの姉妹艦だ。だが、あのときは結局誰も南雲機動部隊を発見することができなかった。その後の戦況は目を覆うしかない。我々は負け続け、彼らは勝ち続けた。しかし、それも昨日までのこと。今日からは、違う。

「そうね。けれど、その苦い思いも昨日で終わるわ。赤城達がいないのは残念ですけれど、翔鶴級の大型空母二隻と祥鳳級の空母一隻の艦隊、相手にするには不足などありませんからね」

翔鶴級は恐らく翔鶴と瑞鶴の二隻だろう。大型でバランスが取れた同級がまだいるとの情報はない。とするならば、あの二人の船霊も当然いるはず。祥鳳級は潜水母艦から改造された、翔鶴クラスとは比べものにならない小型空母。こちらに船霊が存在するかは、まだ我々は掴んでいない。だが、これにも存在するとしたら、厄介なことになる。大日本帝国海軍は主力艦艇以外にも船霊を建造できうる余裕があるか、さもなくば簡易化、量産に成功したと言えるからだ。対する我が合衆国は艦船そのものの量産は可能だが、スピリットまで含めた量産にはまだ成功していない。たとえば合衆国の造船能力で正規空母は二ヶ月で竣工させられるが、スピリットの結晶にはその何倍もの時間を必要とする。大日本帝国の船霊の戦闘能力は既にパール・ハーバーで証明されていたから、現状は我々に不利だ。

「……とにかく、過去を振り返っている余裕は、今の私達にはないですわよ。一刻も早く敵戦力を削ぎ落とし、回復させる隙すら与えずに攻め落とす――一度完膚無きまで叩き伏せることができるなら、もう彼らには立ち上がる術はなくなる……」

それは、ヨークタウンに語りかけた言葉ではなく、私自身に言い聞かせる言葉だった。

*

「左舷前方!雷跡ふたーつ!!」

見張り員の声に空母祥鳳は迅速に反応した。魚雷を躱したのは今日でもう何本目か。

本来上陸戦力を揚陸させるための輸送部隊を護衛する任務を負っていたはずの祥鳳に、アメリカ艦隊はそれこそ主力艦隊を撃滅させるかのごとく猛然と襲いかかった。大日本帝国艦隊を血眼になって捜していた偵察機が護衛していた油槽船タンカーを空母と誤認し、また潜水母艦を改造した小型空母の祥鳳を正規空母と誤認したことが招いた結果だったのだが、今はそんなことは関係ない。祥鳳達にとって、生き延びなければ全ては始まらないのだ。後に第一次珊瑚海海戦と呼ばれることとなる地獄の幕は、こうして切って落とされた。

「……まさか、こっちに来るとはね。翔鶴達がいつ気付いてくれるか……」

空母祥鳳の船霊、祥鳳は手にした25ミリ機関砲の砲身が焼き付くのも構わずありったけの弾幕を張り巡らせ、守るべき上陸用戦力を載せた船団に迫る敵機を叩き落とし続ける。輸送船に乗り込んだ陸軍の兵達は百戦錬磨の強者揃いだが、海の上では無力な積荷でしかない。船霊祥鳳と、上空警戒機の収容補給という最悪のタイミングでありながら何とか飛び上がることができた空母祥鳳の艦載機、零戦の獅子奮迅の活躍で雲霞のごとく押し寄せる白い星のマークが海に墜ちるたびに、彼らはこの地獄が早く終わるよう、早く上陸できるよう祈ることしかできないのだ。

「くっ!敵の数が多すぎる!!早く……日没はまだか!せめてスコールでも来てくれ!!」

砲身の焼き付いた25ミリ機関砲を捨て、空母祥鳳の格納庫より昇降機で飛行甲板上に上げられた新しい機関砲を台車からもぎ取るように受け取って休む暇すらなく敵に向かう祥鳳。だが、彼女の目の前に突如として立ち上った水柱が、彼女に新たな敵の出現を告げた。


「……レディ・レックス!大日本帝国の船霊です!」

ヨークタウンが先に敵を見つける。私はやはり、と思った。大日本帝国は主力の新鋭艦以外にも船霊を装備させることができる。当初は正規空母と報告されていたが、その実ただの軽空母でしかない祥鳳級。戦力的にどう評価するかは、既に結果が出ている。我が航空隊は、40機近い戦力で攻め立てているにもかかわらず、未だに祥鳳級一隻を沈めることができていないのだ。

「ヨークタウン、手を出さないでね」

試射にはちょうど良いかもね――肩で切り揃えた黒い髪を振り乱し必死の形相で攻撃を防ぎ続ける彼女は、まだ私達には気付いていない。半身である空母から新しい武器を手にして更に攻撃を続けようとしているところに、私は5インチ連装砲弾を立て続けに叩き込む。前方に至近弾。射線がややずれているが、修正できないほどではない。そこで彼女は初めて私達の存在に気付いたようだ。

「……そんな……空母が……二隻も……」

愕然とするその表情が見て取れた。だが、ここは戦場。彼女に絶望の余韻を味わってもらうことも、また一興かも知れない。

「私の名前はアメリカ海軍太平洋艦隊所属CV-2レキシントン。葬る前に、名前を聞いておきますわ。墓標に刻んで差し上げますわよ」

彼女の表情が激変する。私の言葉は、やや予想とは違ったが、狙い通りの効果を現したようだ。戦場で冷静さを失った者の末路は一つ。彼女もまた、経験が足りない戦士の一人だったようだ。赤城とは比べるべくもない。

「大日本帝国海軍聯合艦隊所属の祥鳳だ!わざわざお出まし頂けたとは好都合、返り討ちにして聯合艦隊の勝利の記録に加えてやるさ!」

祥鳳は言いつつ間合いを詰める。赤城のように式を使うつもりならば、間合いを詰めることはない。既に使い果たしたか、それとも最初から装備していなかったのか。しかし、それを許すほど、私も甘くはない。

「ゴー!ドーントレス!」

懐から取り出したカードを空に放り、私は封じられたファミリア使い魔を現実世界に解放する。蒼い炎をまとったカイツブリが炎の中より姿を現し、祥鳳に迫る。同時に、私は射線をそれぞれずらして、挟み込むように5インチ砲弾を撃ち込み、祥鳳の逃げ道を断つ。パール・ハーバーで赤城にやられたものと似たような手――だが、赤城と違い、私の場合は既に5インチ砲の次弾装填が完了している。たとえこの囲みを突破されても、次で祥鳳の体に大穴が開くことは確実にしてある。いや、私はむしろこの一撃を捌いてくれることを期待していたのかも知れない。もっと楽しませてくれ、そう思っていたのかも知れない。

だが、祥鳳にそこまで望むことは酷だった。いや、赤城がハイレベルすぎるのだと、私は知った。祥鳳は迎撃に失敗したドーントレスの直撃で動きを止め、続く5インチ砲弾の直撃であっけなく海の藻屑と消える。そして、半身を失った空母祥鳳もまた、その後を追うかのように爆弾、魚雷とありとあらゆる攻撃を受けて沈没する。その回避能力は船霊が存在していたときとは格段の差が見られた。船霊が消えた途端、突如として重量が倍になったかのような、そんな鈍重な動きしか取れなくなったようだった。

「……他愛もない……」

私にはそれだけしか言葉がなかった。ヨークタウンもあまりの手応えのなさに呆れているが、それは酷というものだろう。彼我の戦力差と性能差がありすぎただけなのだ。むしろ正規空母二隻を相手取り、軽空母一隻で何ができるというのだ。

「帰還しますわよ。ヨークタウン。まだ、戦闘は終わっていませんからね」

そう。これは序章に過ぎない。敵艦隊はまだ健在だ。上陸部隊の阻止はできたが、主力空母を残したままでは、何の意味もない。


空母祥鳳が消えた珊瑚海に、今、陽が落ちる。多くの血を飲み込んだ海が紅く染まる中、私はさらなる激戦の予感に身を震わせる。翔鶴、瑞鶴の二人が私達を捜していることは明白だ。そして、私達も彼女の居場所を捜している。戦いの第二幕が、間もなく開こうとしていた……

To be continued Scene.2...