失われた知識のルビー
第二章 眠れる青竜 そして試される者
1
テュロス達が旅立った日、村は昼過ぎから激しい豪雨に襲われた。その雨で海は大荒れに荒れ、熟練した漁師達でもとても船を出せない状態となった。村人は家の中で雨が止むのを待ち、普段なら夕飯の材料を買い求めるための人で賑わう市場も、今日は雨の止む見通しがつかないことから早々と開かれないことが決まっていた…。
その激しい雨の中、ブリュンヒルデは紳士用の大きなこうもり傘を差して村外れの教会へと続く道を一人で歩いていた。彼女はテュロス達の旅の安全をこの村の守護神である海神ネプトルに祈願しようとしていたのである。
彼女の胸は今、不安で一杯だった。テュロス達が明け方早くに家を出た後から、それは少しずつ彼女の心を占め始めていた。そしてそれが頂点に達したとき、彼女は家で安穏としていることがいたたまれなくなった。そして手近にあった傘を手に取ると何もできない自分が唯一できることとして、守護神に一心に祈りを捧げ彼らをその大いなる力で護ってもらうことを選んだのだった…。
「テュロス達、今頃どうしているのかしら…」
ブリュンヒルデはその場所から遥か遠くに見える『神殿跡の洞窟』を仰ぎ見た。村人達の噂ではあの洞窟には魔界から呼び寄せられた海魔の屈強な眷属が入り込んでいるらしかった。その中に実戦経験のまったくない四人が入り込んで、生きて帰って来れる保証はどこにもなかった。それが彼女の暗く沈んだ心をより暗いものとしていた。
彼女が村外れの教会に着いたのは、それから五分くらいしてからのことだった。ここは海魔が復活してから石にされた哀れな犠牲者達の安置所にもなっていたため中は薄暗く、古代からの伝承が幾重にも描かれたステンドグラスも外から見ると、そこに映る石像の影がそれを見る者に何とも表現しにくい恐怖感を与えていた。
彼女が入り口の大きな扉をゆっくりと押し開ける。外から見ても分かるとおり中は蝋燭がまぱらに灯されているだけで大変薄暗く、石にされた人が中央に敷かれた真紅の絨毯の両脇に整然と並べられているため、入って来た者にそこが教会ではなく本当は石像専門の美術館ではないのかという錯覚すら起こさせた。その間を通るとき、彼女は途中にある一体の像の前で立ち止まった。それは彼女と同じくらいの年の女性が石像化されたものだった。
「ルー…。きっと、元どおりにしてあげるからね…。だから…」
彼女はその像の頬を手で撫でながら眩いた。ルーとはプリュンヒルデの幼なじみであるジークルーネのことである。彼女が石にされたのは二日前。しかもそれは彼女の目の前で起こった出来事であった。ジークルーネはブリュンヒルデに向かって手を振っている姿のままでそこに静かに立っていた。しかし彼女の目にはもはや光は宿っておらず、代わりに蝋燭の光に照らされて鈍い光を放つ石の塊があるだけだった…。その像を見るたびにプリュンヒルデの心には暗い影が差す。なまじ彼女が明るい表情のまま石になっているだけに、その哀しみは彼女の中で更に倍増される結果となっていた。
彼女はその哀れにも石像と化した親友にひとまず別れを告げるようにして真紅の械毯の上を歩き出し、そして一番奥に安置されている海神ネプトルの神像の前にひざまずいた。そして静かに目を閉じて一心に祈りを捧げる…。
「偉大なる海の護り手、海神ネプトルよ。願わくばその御加護を最愛の義弟妹達に与えたまえ…」
これが彼女の祈る唯一の願い事だった。
しばらくして、彼女は自分の後ろに誰かがいるような予感がして慌てて振り向いた。すると、そこには純自の神官着を繊った自髪の老人――この村ただ一人の神父であり医者である神父エターナリャス――がにこやかな顔で彼女に向かって微笑みかけながらそこに立っていた。
「…仮にも神にお仕えする身の私が貴女の神聖なる祈りの邪魔をしてしまったようですね。…ん?貴女らしくもなくいつになく暗い顔をしていますが…。良かったら訳を話していただけますか?」
ブリュンヒルデは三日前から今日までのテュロス達のことを彼に話した。するとそれを聞かされたエターナリャスはその顔からはほほえましい笑みをかき消し、テュロス達を心配するような顔で…
「…そうですか。とうとう彼らも旅へ赴きましたか…。しかし、何も貴女が気に病むことはありません。私は以前から彼らの中にとても小さな、しかしやがて何かの拍子でとても大きくなる可能性を秘めた希望の光があるのを知っていました…。ですから彼らには幾多の困難が降り懸かるやも知れませんが、彼らは互いに力を合わせてその困難を乗り越えて行くことでしょう。私にできることと言えぱ彼らに神の御力添えがあるように祈ることだけです。…おお。神よ。若き勇者達にあなたの偉大な御加護のあらんことを…」
彼は首から下げている聖印を握り締め、そして神に祈りを捧げた。
ブリュンヒルデにできることは、彼の祈りの言葉を間きながらテュロス達が誰一人怪我をせず無事に掃って来るように神父の横でただひたすらに祈ることだけだった…。
2
「…いたたたた。もうっ!一体どこをどうすればこんなことができるのよ!」
「俺に言うなよ!船を操ったのはこれが初めてなんだぜ。初心者にそこまで言うことないんじゃないか!?」
「…まあまあ、二人とも落ち着いて。誰がやってもこうなるのは分かってたんだから文句言わないの。そこまで言うんだったらロスが自分でやれば良かったんじゃないのかな?」
「…えーい黙れっ!くちぱしの黄色いひよっこが三人揃って何を無駄なこと話してるんだ!そんな暇があるなら早いとこ荷物を陸に揚げろってんだ!…ったく、こいつらときたらいつまでたっても同じことぱかり言いやがって…」
テュロス達が洞窟のあるかつて海上神殿のあった島の岩場に上陸したのは、太陽が南に昇る直前だった。かねてからの予定では、明け方近くに出発してから陽が昇る直前に上陸し、そのまま一気に乗り込む手筈であった。しかし、彼らの中に一度でも船を操ったことのある人間は一人もいないため、仕方なくテュロスが舵を取った結果、あちこちを迷走したあげく見事に転覆してしまい彼らが身につけていた荷物以外のほとんどの荷物を海の中に無くしてしまうという最悪の事態を招いてしまった。お陰で彼らのもっている食糧は今日を含めてあと一日分しかなく、飲水に至ってはロスヴァイゼが腰に下げていた革製の水筒以外の全てを失っていた…。
「…まあ、過ぎたことをいつまでも嘆いてたって仕方ない。先を急ごう。予定よりも少し遅れただけなんだからな」
テュロスは責任を感じて気まずそうな顔をしながらも、三人を元気付けるように大きな声で言った。
「そうね。ここまで来た以上それしか道はないものね」
ロスヴァイゼは海水で濡れた髪をしきりに気にしながら言った。
そうと決まればさすがに四人の行動は早かった。彼らは海から引き揚げたばかりのそれぞれの荷物をまとめて背中に背負い、意気揚々と洞窟の中へと入って行った…。
彼らが入った洞窟の入り口付近は上から崩れて来た神殿の残骸が瓦群の山となって辺り一面に広がっていた。そこにはかつて礼拝堂に祭られていたであろう様々な神の像が原形を留めぬくらいにまで破壊されて転がり、その大地震と大津波がいかに凄いものであったのかを改めて彼らに知らしめた。しかし、奇妙なことに入り口から数十フィート進んだ辺りから洞窟の内壁はそれまでとは打って変わって非常にしっかりとした石造りのものになり、さらに壁の両側には光を発する網長い物体が等間隔に設置されていたため松明の明かりを必要としなくなった。
「な…何だ…ここは?誰かが住んでいるのか?」
テュロスが率直な驚きの声を上げる。
「…こりゃ凄え。俺ゃ魔法に関しちゃド素人だが、こんなに凄え魔法が使えるのは相当能力のある魔法使いしかいねえ…。…おいテュロス。お前が言ってた『海魔』って奴あ一体どんな奴なんだ?」
アレクゲルグも驚きを隠し切れない様子でテュロスに訊いた。
「俺にもよく分からない。だけど今までのことからかなり手ごわい相手だということだけは分かってる。…多分、義父さんはこのことを知っていたから俺達に奴に対抗できるだけの強さをもった武器をくれたんだ…と思うんだ」
テュロスの言葉からこれからのことに対する不安な様子が手に取るように分かった。
「…しゃあねえ。義親父様の期待に応えるためにも善処を尽くすか…」
アレクゲルグが溜息をつきながら両手を肩のあたりまで上げてやるせない気持ちを表した。そこで会話は終わり、しばらくの間は誰も喋ろうとはしなかった…。
それからだいたい距離にして二十フィートの間、延々と真っすぐな道が続いた。それから更に二十フィートほど進んだとき、頑丈な石造りの壁は途切れ、幅七十五フィートほどの小さな入り江がそこに広がっていた。その入り江の真ん中には大きな岩がひとつあり、そこには遠くてよく見えないが足を海水に浸けて戯れているように見える、上半身裸で髪の長い美しい女性が座っていて、その周りには胸まで水に浸かっているその女性の護衛らしい同じく上半身裸の金髪の男たちがいた。
彼らは初めのうちはテュロス達の存在に全く気付いていないようであったが、護衛の一人がテュロス達の存在に気付き女性に耳打ちした後、彼女はテュロス達に向かって相当の威圧感を感じさせる声で…
「立ち去なさい。ここはそなたらのような下賎の者の来るところではありません。早々に立ち去るが良いでしょう。これは私からの最初で最後の警告だと知りなさい」
と、優しいながらもかなりきつい言葉で話しかけて来た。
その言葉はテュロス達四人、特に気の短いアレクゲルグを激怒させ、その女性と護衛たちに向かって思い付く限りの罵りの言葉を吐かせる原因となった。
…もし、このときどちらかが身を引いていれば、ただ彼ら全員の気分を害しただけに止まったかもしれない…。しかし、そのときの両者は互いに一歩も引かなかった。そのため、どちらが仕掛けたかは敢えて言わないがそこはいつの間にか戦場になっていた…。
この戦いでテュロス達は二つの大きな見落としをした。一つは自分達が飛び道具と呼べる武器をほとんど携帯していなかったこと。そしてもう一つが彼らの相手が人間ではなく女人魚と男人魚であったことに、彼らが気付かなかったことである。そして、彼らがそれに気付いたのはもはや手遅れに近い状態に陥ったときであった…。
「みんな見て!こいつら人間じゃないわ。人魚よ!」
ロスヴァイゼが『魔法の矢』の呪文で仕留めた相手の死体を見て驚きの声を上げた。
『『何だって!?』』
それを聞いた全員が同時に驚いた。
「くっそう!どうりで奴ら水から上がって来ない筈だぜ!…ロス!アレク!遠巻きにいる奴らは任せた!」
この切羽詰まった状況にテュロスが一応リーダーらしく二人に指示を出した。
「…いちいちうるさいっ!俺は自分の思うとおりにやるって最初っから言ってるだろっ!」
「任せて!こうなった以上全力で片付けるわ!」
テュロスの指示にそう答えた二人はそれぞれの武器や呪文を相手に叩き付ける。しかし、アレクゲルグの投げた短剣はことごとく護衛の男人魚達にかわされ、ロスヴァイゼの放った『魔法の矢』も『魔法の楯』の呪文を使った女人魚には効果が薄かった。テュロスとレルムも岸辺近くにいる人魚に向かって手当り次第に斬りかかったが、その切っ先は空しく空を切るだけだった。
「ククク…。やはり下賎の者は野蛮で困る。おまえらごときが我々と刃を交えたこと自体が愚かなことだったのだ…。さあ、我らが主テテュス様の御前でひざまずきそして崇めるのだ。そうすれぱ寛大なテテュス様はおまえらの愚行をお許しになられるだろう」
テュロスのすぐそばにいた人魚の中の一人で珊瑚か何かで作られたと見られる意匠を凝らした鋭い槍を持った男がテュロスに向かって蔑みの目に更に嘲笑を添えて、そう言った。
「だ…黙れっ!俺達は絶対おまえらになんか屈服しない!」
テュロスは人魚にそう言うのとほぼ同時に右手に持っていた長剣を横に薙ぎ払う。人魚はその一撃を軽々とかわしたが、テュロスの持つ剣を見た彼は驚きと共にこう言った。
「そ…その剣は…。お…お前ごとき下賎の者がな…何故その剣を持っている?お…お前は、その剣が一体誰の持物であったのかを知っているのか?」
「はあ!?何のことだ?この剣は俺の義父さんがこの戦いのためにって言って俺にくれたものだ。…おまえらこそ一体何だ!いきなり襲い掛かって来たくせに今頃になって何を言い出すのかと思えば…」
初めのうちは怒りに身を震わせていたテュロスが呆れ顔でそう答えた。
それを聞かされた人魚の男は慌ててテテュスにそのことを伝えに行った。それを聞いたテテュスも驚いているらしく、すぐさま自分の配下たちに戦いを止めるように告げた。そして彼女はさっきの男人魚を護衡に付けて悠然とテュロスたちのところへとやって来た。
「テュロスとか申しましたね、そなたの剣を私に見せてみなさい」
彼女はさっきまでの威厳を残しながらも少し穏やかな声で言った。
テュロスは初めのうちは迷ったが、もし剣を奪われてたとしても彼は予備の武器として短剣を携帯していたので、若千の不安を感じながらも手に持っていた長剣を鞘に戻してこれで斬りつけようなどという意志のないことを示してから彼女に渡した。
テテュスがその剣を見る目は真剣そのものだった。そしてその鞘に刻まれている古代文字と水龍の浮き彫りを見て何かを確信したらしく、渾身の力を込めて一気に剣を鞘から抜き放った。
「こ…これは…!?」
驚いたのはテテュスではなく、テュロスの方だった。テテュスが抜き放った剣は彼が振るっていたときより数倍の輝きを放ち、金属でできているはずの刀身はまるで水晶のように透き通っていたのである。
「…やはり…そうでしたか…」
テテュスは懐かしむようにその剣を見ながら言った。それから剣を元どおりに鞘に戻すと、恭しくそれを持ち上げ、そしてテュロスに返した。
「一体どうなってるんだ!?」
テュロスが不思議な顔をしてテテュスに訊いた。すると、テテュスは自分の配下たちを集めテュロス達の前で深々と頭を下げて謝罪の意志を示し、そして…
「先程までの御無礼をお許し下さい。まさか貴方達が不死鳥の家系の方だとは思いもしませんでしたので…」
「不死鳥の家系?」
それを聞いたのはロスヴァイゼだった。
「貴女達はその剣の由来をご存じないのですか?」
「ええ。それはあたし達が義父さんから一週間前に復活した魔物を退治するために貰ったものだから…」
「…そうだったのですか。そうすれぱ貴方達は不死鳥の家系の長からそれらを託されたということですね。…では、お聞かせ致しましょう。数百年前の海神ネプトルと海魔クラーケンとの戦いのことを…」
テテュスは語った…。かつて海神ネプトルは自分が支配する大海の他にそこに接する海岸も支配していたことを。更に彼の周りには人魚の一族『水龍の家系』と人間の一族『不死鳥の家系』という代々彼の近衛を勤める者達がいて、彼の支配するすべての場所の平和を守っていたことを…。そして…
「…そして、数百年前の太陽が消えた日にあの忌まわしい海魔クラーケンは姿を現し、すべての源である海を支配せんとして海神ネプトルに大海の覇権を賭けて戦いを挑んで来たのです。その戦いで私達の一族も『不死鳥の家系』の一族もほとんどが死に絶えました。その戦いの終わりに、ネプトルは最後の力を振り絞ってクラーケンを海底深くに封じ込めましたが、自らもその肉体を失いました。そのとき、もし再び海魔が蘇ったとしてもすぐにはその剣を手に入れられぬように、お使いになられていた海神ネプトルの神剣『水龍の剣』を地上に住む『不死鳥の家系』最後の生き残りの若い夫婦に託されたのです…」
ここでテテュスは悲しげに語りを終えた。
「そうだったのか…。それで君はその剣を壊かしそうに見ていたのか…。…それで、一体俺達は何をすれば良い?君なら知ってるだろう?教えてくれ!」
「テュロス…。貴方は不死鳥の家系の長によって選ぱれた戦士です。自信をもって立ち向かうと良いでしょう。それしか、私から言うことはありません…」
「…そうか。じゃあ、最後に一つだけ教えてくれ。クラーケンは一体どこにいる?それが分からなけれぱ俺連がここに来た意味がなくなっちまうんだ」
「……」
「…どうしたんだ?急に黙り込んでしまったりして…」
「お静かにっ!良く耳をすまして下さい。…聞こえませんか?」
テテュスの言葉に従い彼らが彼女の指し示した方角から聞こえて来る音を注意深く聴くと、そこからは…ヴォ…ォォン…ヴォォォン…という何かが吼える音が聞こえて来た…。
「あれがクラーケンの咆哮…。今の私達は奴に隷属を強いられています。ですから私達は誰も近付かないようにここで見張りをさせられていたのです…」
テテュスの表情は暗かった。
「…分かった。これで俺達の目的がより確実になった。村のみんなを助けるためと君達を解放するためという二つの目的がな」
テュロスが決まりが悪そうに笑いながら言った。
「……。…私達は…貴方のような人を待っていたのかも知れませんね…。お礼と言っては何ですが私達から貴方達へのせめてものお手伝いをさせてもらいましょう。…ディズカ!他の者を全員ここへ呼びなさい。この人達を向こう岸まで渡してさしあげるのです」
テテュスは元の威厳のある声で護衛として彼女の横にいた人魚、ディズカにそう命令した。そして彼が向こうへ行ってからしぱらく後、彼は辺りにいた仲間を連れてここに戻って来た。
「テテュス様。総員皆揃いました。いつでも向こう岸まで渡せます」
ディズカが彼女に向かって恭しく頭を下げながらそう言った。
「よろしい。今すぐ渡してさしあげなさい。事は一刻を争います。急ぐのです!」
テテュスの命令を受けたディズカは、周りにいた人魚達に号令を発した。すると見る見るうちに彼らは一直線に並び向こう岸までの生きた橋が出来上がった…。
「さあ!お渡り下さい!」
「だ…だけど…」
テュロスは躊躇した。
「先程までの無礼の数々、これくらいではまだまだ債い切れませぬ!さあ!早く!」
足元にいるディズカがテュロス達を急かす。
「わ…分かった。できるだけゆっくり渡るからな」
「心配ご無用!先程のテテュス様のお言葉どおり貴方達にはもう時間はないのですぞ!さあ!」
テュロス達はできるだけ人魚達に負担をかけないように急ぎながらも慎重にその橋を渡った。しかし、滑り止めの鋲が打たれている靴を履いた四人もの人間が立て続けに渡った後、彼らの背中からは血が滲み、きらきらと輝いていた鱗もずたずたになっていた。そしてテュロス達全員が渡った後も、彼らはテュロス達の姿が洞窟の向こうに消えるまでずっと見送っていた…。
こうしてテュロス達は無事に入り江の向こうに渡ることができたのだが、彼らの表情は暗かった。彼らはさっきの戦いで受けた傷の痛みを忘れてまでテテュス達の心配をしていた。遠くからクラーケンの咆哮が響く…。彼らはその声の方向に向かってただ真っすぐに伸びる道を何度も何度も振り返りながら走って行った…。
「あの人達、大丈夫なのかしら…。私達をここまで渡したのに…」
ロスヴァイゼが後ろを何度も何度も振り返りながら言った。
「かなり痛そうだったよ〜!?あれだけ僕達が踏み付けたんだものね。…何か悪いことしちゃったね」
レルムもロスヴァイゼと同じように何度も振り返りながら言った。
「とにかく今はそんなこと言ってる場合じゃねえ。テテュス達の身を呈した行為に報いるためにも俺達は全力であのクラーケンとかいう奴に立ち向かって倒さなけりやならねえんだからな!」
たとえ普段は悪びれていてもどこか一本筋の通っているアレクゲルグらしい台詞だった。
「そうさ!俺達がやらなきゃ誰がやるってんだよ。そのために俺達はここに来たんだぜ!…よーっし!俄然やる気が出て来たぞ〜っ!」
テュロスは以前にも増して元気が出て来たようだった。
それからしばらく走った後、彼らの前には大きな岩壁が立ち塞がった。全員で辺りをくまなく探したが抜穴らしきものは見つからず、ただ途方に暮れるだけになってしまった…。
「くっそうっ!ここまで来てこのザマかよ!」
アレクゲルグが岩壁を殴って悔しさを表す。そのときの他のみんなの気持ちも、彼とまったく同じだった…。
「どうするのテュロス?このままじゃどうしようもないわよ」
「言われなくても分かってるさ。だけど一体どうすりや良いんだよ!?まさかこの岩壁を叩き壊せとでも言うのか!?幾ら俺達でもそれだけは無理だぜ」
テュロスが両手を上げて手も足も出ないことを示す。
「ちょっとみんな!ここ!ここ来て!」
レルムが大声でみんなをその場所に呼び集めた…。
レルムが指で指し示した所は、岩壁の下側のちょうどレルムの頭の位置だった。それは彼が岩壁をいじっているときに偶然にその場所の岩が剥がれ、隠されていた金の看板があらわになっていた。そこには少なくとも数百年前のものと思われる古代文字が刻まれていた…。
『『…………!?』』
それを見たテュロス達は揃って頭を傾げた。彼らにはこれが何を意味するのかが全く理解できなかったのである。
そこで考えるのが嫌になったのか、アレクゲルグが「さっさと先に進む道を探そうぜ!」と言い出したとき、それに待ったをかけたのはこれを見付けてからずっと何かを思案し焼けていたロスヴァイゼだった。
「ちょっと待って!…あんまり自信がないんだけど、ちょっとやってみたいことがあるのよ」
「一体何なんだよ!俺達は急がなきゃなんねえんだぜ」
アレクゲルグが腹を立てて声を荒立てる。
「いいから。少しだけ、ねっ?」
ロスヴァイゼはアレクゲルグをなだめるように言い、それからその金の看板に手を当てて何かを唱え始める…。
しばしの静寂の後ロスヴァイゼが短い呪文の詠唱を柊えたとき、テュロス達にはその看板がうっすらと輝いたように見えた。そして、それを見た彼女は嬉しそうにその看板の文字に見入っていた。
「分かったわ!初めての呪文だったんで成功するかどうか心配だったんだけど…どうにかうまく行ったみたい。…ふーん。これにはアレクの喜ぷようなことが書いてあるのにねえ。どうしようかなあ?」
ロスヴァイゼはアレクゲルグに対する今までの累積した恨みを全て晴らすかのように悪戯っぽい笑みを浮かべていた。
「な…何!?そんなことが書いてあったのかよ!?…な…なあ、早く読んでくれよ…拝むぜロスちやん!」
アレクゲルグはなりふり構わずロスヴァイゼを拝み倒すようにして言った。
「そんなに焦らなくたってちゃんと読んであげるわよ!だから唾飛ぱして喋らないで!…えーっと…。『命の惜しい者は引き返せ。猛き者は宝を取り、より賢き者は更に大切なものを手に入れるが良い』だって。多分この扉の向こうに宝物か何かあるんじゃない!?そうでなきゃこんな大掛かりなことする人なんかいない筈よ。きっとどこかにこの壁を開けるための鍵か何かがあるに違いないわ」
「よくそんなことが分かったな。一体どんな魔法を使ったんだ?」
と、驚いたテュロスが聞く。
「簡単よ。『解読』の呪文を唱えただけなんだもの。ただ、あたしは義姉さんからは基本の型しか教えてもらってなかったからうまく使えるかどうか心配だったんだけどね」
ロスヴァイゼは得意そうな顔でテュロスに答えた。
「とにかくここを開ける手掛かりを探そうぜ!俺ゃあ早くお宝にお目にかかりてえんだ!…っと何だこれ?…あったあ!あったぞーっ!」
テュロス達の話にも全く耳を貸さずただひたすらに扉を開ける手掛かりを探していたアレクゲルグが何かを見付けたらしく歓喜の声を発した。テュロス達が見たアレクゲルグの持っていたものは、今にも折れてしまいそうにまで朽ちている古ぼけた青銅の鍵だった。
「よーっし!これで後は鍵穴を探すだけだが…。…ん!?レルム!ちょっとそこを退け」
「何があるの?こんなところに…教えてくれても良いでしょ?」
「うるせえ!そこの金の板を外してみるだけだ!…っよっと…ほら!やっぱりここだったぜ」
アレクゲルグが持前の勘を働かせてさっきの金の看板を外すと、くぼみにはちょうどさっきの鍵が入りそうな鍵穴があり、その鍵穴の回りにはまた金の看板と同じ頃に刻まれたと思われる古代文字が鍵穴をぐるりと囲むように刻まれていたのである…。
「…お…おい。今度は何て書いてある?まさかまた変な謎かけじゃねえだろうなあ?」
アレクゲルグが刻まれている文字を見て思わず尻込みした。
「まだ呪文の力が残っているから見てあげる。…えーっと『鍵をここに差し込みなさい』って書いてあるわよ。ただの指示だけみたい」
「ありがとよ。じゃあ、俺の本領発揮と行くぜ!」
アレクゲルグは腰に下げていた革袋の中から凸凹の一つもない真っすぐな鍵ぱかりの束を取り出し、その中からさっき拾った青銅の鍵と同じような大きさのものを探し始めた。そしてそれが見つかった後、彼はその革袋の中から金やすりを取り出し、その鍵とそっくり同じになるように削り始めた…。鍵が出来上がるにはかなりの時間を必要としたが、その間彼はまさしく職人のような形相でその作業に打ち込んだ。それを見ていたテュロス達はその作業を続けるアレクゲルグに普段は見られないような頼もしさを感じていた。やがて鍵が出来上がったとき、彼は大きく深呼吸をした。そして緊張しながらその出来上がったぱかりの鍵を鍵穴に差し込んで回すと、それはカチャリという音を立てて回った。鍵は数百年ぷりにその戒めを解かれたのである…。
「よっし!俺の仕事はこれでほぼ終わりだ。あとは…テュロス!ちょっと手伝え!」
「分かった!」
テュロスとアレクゲルグは岩壁の隙間に手を入れ、渾身の力を込めてそれを開けようとした。初めのうちはびくともしなかった岩だったが、二人の熱意が通じたのかやがてそれは大きな音を立てて開いた。歓喜の声を上げる四人。しかし、その声はすぐにかき消され、代わりに逃れられない戦慄が彼らを襲ったのであった。
そこにはアレクゲルグが予想していたような宝物は銅貨一枚すらなく、そこには誰もが知っているあの恐ろしい竜、全身を青い鱗で覆われた青竜が横たわっていたのである…。
「みんな武器をしまって!絶対に竜に敵意を見せないで!そうじゃないと皆殺しにされるわよ!」
ロスヴァイゼは他のみんなにそう警告した。そして全員がその指示にしたがって武器を収めた後、彼女は一人で竜の前に歩み寄った。
竜は静かに眠っていた…。その巨体を丸めて横たわっていた。ロスヴァイゼが彼に近付いたとき、彼は静かに目覚めた。初め彼は彼女を訝しげな視線で見ていたが、彼女が敵意をもっていないことが分かると、彼は自分の言葉で彼女に話しかけて来た…。
「…我が棲み家に入り込んだのはおまえ達か?何故私の眠りを妨げた?」
竜の口調はあくまで静かで、それでいて彼女を威圧していた。
「そのことは謝ります。私達はここが貴方の棲み家だとは知らなかったのです」
「ほう。そなたには私の言棄が分かるのか…。ならぱ聞こう。何故そなたらはここに来た?」
「私達は一週間前にこの地に蘇った魔物、クラーケンから私達の村を守るために来たのです。決して貴方に危害を加える気はありません」
「…そうか。あ奴めとうとう蘇りおったか…。しかし奴は普通の人間には倒せんぞ。…ん!?後ろに控えておる若者の持つ剣はもしや…」
「はい。かつて海神ネプトル様がお使いになられた神剣『水龍の剣』です。私達は義父よりこれらの武具を賜りました」
「そうか…。ならぱ…そなたらには資格がある。私がその力を試してやろう…。かかって来い!私に勝てぬようでは到底奴は倒せぬぞ!」
竜がその爪でロスヴァイゼを襲う!彼女はそれを辛うじてかわし後ろへ下がる。そして急いで話の概略をテュロス達に話し、竜との絶望的な戦聞が始まってしまったことを告げた…。
青竜の凄まじい戦闘能力はテュロス達の想像を遥かに凌驚するものだった…。口から吐き出す電撃は一条の光線のようにテュロス達に襲い掛かり、丸太のようなしっぼから繰り出される攻撃は辺り一面に広がるごつごつした岩を片っ端から砕いて行った。しかも竜の顔にはまだ余裕の表情が見え、それが彼がまだ本気を出し切っていないことを示していた。テュロス達も懸命に攻撃に移るときを待ち、その一瞬には烈火のように執拗なな攻撃を繰り返した。しかし、攻撃はテュロスの持つ『水龍の剣』以外はほとんど通じず、また電撃を使う魔物に致命的な傷を負わせることができる『毒霧』の呪文を知らず、実戦経験もないため臨機応変に効率良く呪文を行使できないロスヴァイゼもほとんど呪文による援護はできなかった…。
「どうした!そなたらの力はここまでか!?それでは奴を倒すことなど夢のまた夢だぞ!それとも素直に出直して来るか!」
青竜はテュロス達を励ましているともけなしているとも聞こえる口ぶりで言った。
「畜生っ!訳の分かんねえ言葉ぱっか喋りやがって!俺達はこんなところでいつまでも手間食ってる暇はねえんだ!さっさとてめえを片付けてクラーケンとかいう奴の元へ行ってやらあ!」
「止めるんだ!アレク!がむしゃらに突っ込むのは自殺行為だ!止めろ!」
テュロスの言葉はもはや駆け出したアレクゲルグの耳には届かなかった…。
「…愚かな。私にそんなものが通じるとでも思ったのか!」
青竜はアレクゲルグを迎え撃つべくその翼を広げ威嚇の態勢を取り、大きく口を開けるとその光線のような竜撃を吐いた!
ビシッ!
青竜の吐いた電撃は一瞬にしてアレクゲルグの胸板を貫き、彼の遥か後ろにあった大岩をも砕いていた。血みどろになって地面に転がるアレクゲルグ。しかし、その瞬間もうひとつの絶叫が辺りを揺るがした!
「そ…そなた…は…謀ったな…」
その絶叫の主は言わずと知れた青竜だった。そして彼の左胸に刺さっている何かがアレクゲルグの手元に戻ると同時に彼は地に倒れた。テュロス達が警戒しながら不思議な顔をして倒れた青竜に近付く。すると彼らには青竜の左胸に刺さったものは、アレクゲルグが最後の切札として持っていた筈の『再来の短剣』だったことが分かったのである。
「…や…やった…ぜ…。ざ…ざまあ…みろっ…てんだ…」
アレクゲルグは右手の中指を天に向け、その傷に障るのではないかと思えるくらいの高笑いをした。
――何故アレクゲルグの短剣が竜の左胸に刺さっていたのか?それは青竜が電撃を放った瞬間にその電撃の影に隠れるように彼が短剣を投げたからである。電撃を放つ瞬間はその影に隠れて電撃の下を通って来るものが竜の目から見えなくなるということにいち早く気付いた彼の作戦勝ちであった。しかし、そのために彼は自分の命をも危うくさせるという多大な代償を払わなけれぱならなかったのだが…。
『『アレク!』』
「ば…馬鹿…野郎!いつまでも俺のことに…構って…ないで…奴を…た…倒すんだ!」
テュロス達が駆け寄ったとき、アレクゲルグはそれをはねのけるように言った。
「…ううん。その必要はもうないわ。貴方の短剣が竜の心臓を刺したの。だから…」
「…へへッ。そ…そうか…。じ…じゃあ…俺の仕事も…もう終わり…だ…な…」
「アレク!しっかりして!今回一番の功労者がこんなところで倒れてどうするのよ!だから…しっかりしてっ!」
テュロス達がアレクゲルグの元に集まったとき、心臓に短剣が刺さって地に伏したはずの青竜がゆっくりとその巨体を起こし始める…。
『やられるっ!』
全員がそう感じたとき、竜は無慈悲にもその口を開け電撃を吐き出す態勢に入る。…しかし、竜が吐き出したものは強力無比な電撃ではなく、テュロス達へのねぎらいの言葉だった。
「…そなたらの勇気には感服したぞ。若き未来の英雄達よ。私はそなたらに奴の処分を委ねようと思う。だが、これだけは覚えておくが良い。…奴を倒すことはかの海神ネプトルでさえも不可能だった。彼でさえ奴を石像として海中深く封じることしかできなかったのだ…。奴が蘇ったのは恐らく錠であり鍵であった地上の神像が大地震と大津波で破壊されたことが原因に違いあるまい。奴を封じていたのは神像にはめられていた二つの宝珠のうち、右目にはめられていた『知識の紅珠』だ。それを捜しだし元どおり神像の右目にはめるしか奴を再び封じることはできん…」
「ですが貴方は今『神像は被壊された』と言いました。それではもう二度とクラーケンは封じ込められないのではありませんか?」
「いいや。たとえ胴体は被壊されても頭部は絶対破壊されない筈だ。何しろあれにはネプトル本人の意識が宿っているのだからな」
「で…では…」
「うむ。そなたらは一刻も早く『知識の紅珠』を捜しだし奴を封じることだ。それ以外の方法では徒に被害を大きくするだけだということを肝に銘じておくが良い」
「…分かりました。それで貴方はこれからどうするおつもりですか?よろしければ私達の力になっていただきたいのですか…」
「残念だがそれはできぬ相談というものだ。私は既にそなたらに未来を委ねた…。今更私からは何も言うことなどない。ここから先は自分自身で進む道を切り開くが良い」
「残念です。貴方の力が借りられれぱどれだけ心強かったことか…。貴方の言葉はテュロス達に伝えておきます。では…」
そのままその場を去ろうとしたロスヴァイゼを青竜は引き留めた。
「最後に聞きたいことがある。そなたの名をまだ聞いていなかった…。教えてくれぬか?そなたの名は私の心に永遠に書き留めておきたいのでな…」
「私の名はロスヴァイゼと申します。後ろにおります『水龍の剣』を持つ者の名はテュロス、その横にいますのがレルム。そして先程貴方に手傷を負わせた代償としてぶざまな拾好でそこに転がっている者がアレクゲルグですわ」
「…これは一本取られたな。その言葉も覚えておくぞ。…最後になってしまったが私の名はファゾルトだ。再びまみえんことを楽しみにしているぞ。美しき森の娘ロスヴァイゼ」
竜はそう言い残すと再び深い眠りについた…。
「…お休みなさい。海の青竜ファゾルト…」
それがロスヴァイゼからの別れの言葉だった。
話が終わってテュロス達のところへ帰って来たロスヴァイゼはファゾルトの言葉の一部始終をテュロス達に話した。そしてそれは新たな使命感として彼らの心に刻まれたのであった。
「行きましょう。クラーケンの根城ヘ!早く事を済ましてプリュン義姉を喜ぱせてあげましょうよ!」
「分かった。分かったから早く傷の手当をしてくれ!俺やあもう死にそうなんだ!」
アレクゲルグの哀願の言葉は一服の清涼剤のように彼らの気持ちに働き、辺りには彼らの笑い声がこだました。
「分かったわよ!…もう。せっかくカッコ良く決めたと思ったらこれだものねえ…」
「違いない」
テュロスは笑った。ロスヴァイゼもレルムも…ただ一人満身創痍のアレクゲルグを除いて。それは緊迫した戦いの中に置き忘れて来た何かをこの一瞬だけ取り戻したように辺り一面に響き渡った…。
そう、それはあたかもこれから始まる激戦の予感を薄らいでくれるかのように…。